だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

理想的な結婚の条件

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このブログを書いている私は、結構いい年になってまして…
前々からそうだったのですが、周りから『結婚しないの?』的なマウンティングを受けることが多くなってきました。

したい気持ちはあるという事を告げると、大抵の次の言葉は『どんな人が良いの?』と聞かれるので、価値観が合う人とか話が噛み合う人という返答をするのですが、相手の思っている返答とは違うらしく、変な顔をされる。
質問者の期待としては、『胸が大きい』だとか『芸能人だと○○に似てる』だとか『小柄』といった感じの返答を求めていたのかもしれません。
また、『優しい人』といった感じの理想を散々引っ張り出した挙句、『そんな人いないから!』から始まるマウンティングを行いたかったのかもしれない。

そして最終的には、『考えすぎだよ。』とか、『とりあえず、数を当たれば良い』。極端な場合だと、『好きになる前に取り敢えず告白しとかないと』という、よく分からないアドバイスまで頂く始末。
でもね。そんな行動ができる人間であれば、20台前半で出来ちゃった婚とかしてますし、なんなら既に離婚も経験していると思うんです。

では、そんなアドバイスをしている既婚者の人達が幸せなのかというと、必ずしもそうではな。
最近では、シングルマザーも頻繁に見かけるようになりましたし、離婚していない人からも、愚痴を頻繁に聴きます。
『結婚してよかった!!』なんて感想は、新婚ホヤホヤの人ぐらいからしか聞かず、大抵の過程は不満を持っている。

だから、フリーの人を捕まえてはマウンティングをしたいのかもしれませんけど、マウンティングをされているこちら側からすれば、マウンティングをされる度にイチイチ考えてしまうわけですよ。
『結婚できない自分は異常なんじゃないだろうか。』『考えすぎなんじゃないか。』『勢いに任せるのが正解なんじゃないか。』と…

そんな日々を送っていたわけですが、先日から読み始めた本『銃・病原菌・鉄』に、私の納得ができることが書かれていました。
という事で今回は、その内容を紹介したいと思います。


実際には、『銃・病原菌・鉄』に書かれていた内容ではなく、その作中で引用されていたトルストイアンナ・カレーニナで書かれた言葉です。

気になるその言葉はというと
『幸福な家庭はどれも似たようなものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。』という言葉。

トルストイがいうには、幸福な結婚には条件が有るらしく、その条件が一つでも欠けると不幸になってしまう。
その為、幸福な家庭は条件をすべて満たしていることになり、『どれも似たようなもの』に落ち着くのですが、不幸な家庭はそれぞれの理由で不幸というもの。

では、その幸福な家庭の条件とは何なのでしょうか。

まず大前提として、互いが互いの事に好意を持っていなくてはなりません。
何十年も連れ添うんだから当然ですよね。

次に、金銭感覚が一致していなくてはならない。
どちらかが倹約家で、もう一方が浪費家の場合は、消費が行われる度にどちらかがストレスを抱えることになってしまいます。
消費の度に喧嘩のタネが生まれるわけで、この様な家庭は幸せとは程遠いといえるでしょう。

3つ目は、子供の躾に関して同じ価値観を持つこと。
一方が、子供の好みに合わせた自由な育て方を求める一方で、もう一方が学歴優先で詰め込み教育を行いたい場合、子供の進路の度に喧嘩が起こってしまいます。
また、この手の喧嘩は、子供が上手く育たなかった場合は繰り返し蒸し返されて喧嘩の種になる為、この価値観が一致していない人間同士が結婚した場合、子供が生まれてから20年は争いの種が耐えないことになります。

その他には、宗教観・親戚づきあいに関する価値観など、男女が一緒に過ごす上で必要な価値観が統一されていることが、幸せになる為に絶対に必要な条件ということです。

いわれてみれば、その通りですよね。
これらの価値観が同じ場合は、二人が共同生活を送る上で余計なストレスを感じる場面というのが劇的に下がります。
また、子供に関する躾の価値観が同じ場合などは、正に『子は鎹(かすがい)』といった感じで、パートナーは同じ目標に向かって困難を乗り越える仲間になるわけですから、家族の一体感はより増す事となるでしょう。

つまり、互いに互いを必要として、お互いの存在が幸福に繋がる為のパートナーというのは、最低限の価値観というのは完全一致している必要があるということです。
こういう事をいうと、『でも、価値観が違う人と一緒にいるほうが、新たな価値観が知れて面白いでしょ。』と言い出す人が一定確率で沸きますが、ここでいう価値観というのは、そういう事ではないんです。。

例えば、クラシック音楽を聞くのが好きな人と、ロック音楽が好きな人が結婚した場合、互いに別の価値観を知ることが出来て、面白いということは有るでしょう。
しかし、これらの人は、『音楽を聞くのが好き』という根本的な部分が一致しているから、相手の別ジャンルの音楽を聴く余裕があるだけです。
仮にパートナーが、『音楽を聴く時間が勿体無い!家では無音が基本でしょ。 暇な時間が有るなら、ためになる学術書などを読むべき!』って主張だったらどうでしょう。
音楽を聴くという生活を捨てて、無音で学術書を読むという新たな価値観に鞍替えするのでしょうか。

人が考える『常識』や『普通』という価値観がありますが、実際の世界にはそんなものはありません。
有るのは、『貴方が考える常識』であり、『貴方の価値観での普通』だけです。なら、普通の生活をストレス無く行う為には、『普通』や『常識』といった概念を、同じ価値観で共有することが必要となります。
これらの価値観を常に一緒にいる人と共有できていない場合、事ある毎にパートナーと些細な争いが起こり、その度に不平不満が溜まっていくことになります。

では、生活する上で最低ラインの価値観を共有する為には、何が必要なのかというと、対話と長時間同じ時間を過ごすことによる観察しか無いと思います。
ですが実際の社会では、特に日本などでは、その機会は結構少ないようなきがするんですよね。
kimniy8.hatenablog.com

上のリンクは昔に書いた記事ですが、日本の場合は出会って最初の段階で付き合うかどうか決め無くてはならない空気感がありますし、何も進展のない状態で誘ったとしても、3回目以降は告白という儀式が無いと会いたくないという雰囲気があります。
既婚者からのアドバイスでも、先ず既成事実を作れとか付き合ってから考えろと言われたりするんですよね。
しかし、これらの行動は、どう考えても『幸福な家庭』を築くためのものではなく、博打要素のほうが強くなってしまいます。

しかし、私も含めて多くの人は、博打がしたいんじゃないと思うんです。
『幸福な家庭』を築きたいと思っているんです。

そして、その前提条件となる価値観を合わせるために必要になってくるのが、対話なわけですが、先程、紹介した過去に書いた記事でも取り上げた告白でもそうですが、日本では、この対話が軽視されているように思うんですよね。
容姿や年収と言った表面的なものだけに焦点が当てられ、本当に大切な価値観の摺り合わせが行われていない様な気がします。
 (共に、厚生労働省調べ)
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ここ最近は、少子化やら晩婚化やらいわれていて、結婚件数自体が右肩下がりなのに、離婚件数が右肩上がりなのは、これが原因のような気がするんですよね。