だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第18回 ゴータマ・シッダールタ(4)

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回は、般若心経の解釈について、途中まで行っていきました。今回は、その続きを行っていこうと思います。
前回までで読み解いた部分を簡単に振り返ると、この世の全ての現象は実態が無いもので、縁起の法則に則って、循環を繰り返しているだけに過ぎない。
人間が有ると思いこんでいるものは、その循環の中にある現象の一部分だけを取り出して名前を付けて、それに対して『有る』と思い込んでいるだけで、その物自体には実態はないもので、時間とともに変化してしまうもの。

この世の全てのものに実態が無いのであれば、それを感じ取っていると思いこんでいる人間の五感にも実態はないし、その五感を統合して感じ取っている意識といったものも存在しない。
だから、この世に醜い、美しいといった価値観もないし、綺麗・汚いといった価値観もない。当然のように、不幸や幸福といったものも無い。実態のないものが、生じて滅するわけもなく、我、つまりはアートマンも存在しないという所までやりました。
そして、この無我について、全く新しい境地に到達したのか、それとも梵我一如の考えの範囲内なのかというのに解釈が二分しているというところで、前回は終わりました。

今回は、その続きから始めていきます。
復習のために、梵我一如の考え方を簡単に説明すると、宇宙のと個人の根本原理は同じものなので、この世の全ての法則、つまり宇宙の法則を知りたければ、自分自身である個人の根本原理を見つめ直すべきというのが、梵我一如の考え方です。
この個人の根本原理の事をアートマンと呼ぶのですが、では、アートマンとは何なのかというと、『非ず、非ず』つまり『そうじゃない、そうじゃない』としか表現できないものだとされています。

つまり、私自身の体が私なのかというと、『そうじゃない』としか言いようがないですし、感情がアートマンなのかというと、『そうじゃない』としか言いようがない。
あらゆる物を例に出されたとしても、『そうじゃない』としか言いようがなく、だからこそ、壊れることもなければ死ぬことも無い存在。
アートマンとは、ただ、認識するだけのもので、認識するものを認識することは出来ない。その様な存在こそが、アートマンだといっているわけです。

その一方で、ブッダは無我を主張して、アートマンなんてものは存在しないと主張しています。
この主張に対し、『一歩進んだ考え方』という意見と、『基本的な考え方としては、梵我一如と同じ考え方ですよね。』という2つの解釈に二分しているわけなんですが…
個人的な解釈で言わせてもらうと、梵我一如のアートマンと無我の考え方は、同じものだという意見を推したいですね。

というのも、アートマンの説明を思い出してほしいのですが、あらゆるものについて『そうじゃない』としか言えないものというのは、果たして存在しているのかという疑問が沸き起こらないでしょうか。
言葉とは、便利なようで不便なもので、本来は存在していないものであったとしても、定義付けをして名前をつけると、存在している事になってしまいます。
アートマンも同じことで、そもそも存在していないものに名前をつけてしまったことによって、有ると誤解されてしまった概念なんでしょう。

数字で言うところのゼロの様な存在で、アートマン=0と主張するために、あらゆる物を引き合いに出したとしても『そうじゃない』としかいえないものと表現した結果
『あらゆる事について「そうじゃない」といえるものが、アートマンなんですね。』と誤解された…ってことなんでしょう。
ゼロの概念がわからない人間に、1から1を引くと、ゼロになるんだよ。といった場合、ゼロというものになるんですね。と誤解されるわけですけれども、ゼロというのは無いというのを記号で表したものなので
ゼロというものに成るわけでは無く、無いという概念にゼロという記号を当てただけなんですが、ゼロという概念がわからない人は、ゼロという物になると思ってしまう。つまり、無という存在が有ると思ってしまうんですね。

何故この様な誤解が生まれるのかというと、無という存在を理解するのが、非常に難しいからなんでしょう。
例えば、数字で1-1=0と書き表すと、ゼロという概念は何となく分かった気になれます。でも、本当の意味で無という概念が理解が出いているのかというと、それは難しかったりするんです。
何故なら大半の人は、無という概念を有るという概念の対比でしか考えられないからです。

例えば、科学的な観点から、宇宙というものの外側は無いとされています。この概念を、本当の意味で理解できる人がどれだけいるでしょうか。
今主流なのは、ビックバン理論が主流ということになっていますが、そのビックバンによって、時間と空間が生まれ、今も膨張しているとされています。
では、空間の外側はどうなっているの言えば、そんなものは無いんです。何故なら、時間と空間はビックバンによって生まれているので、その外側には何もないんです。

でも多くの人は、宇宙という限定された空間が有るのであれば、それを包み込んでいるような、それよりも外側の世界も、発見がされていないだけで有ると考えますし、宇宙の外側にも時間という概念はあると思ってしまいますよね。
でも、そんなものは無いんです。何故なら、時間と空間は、宇宙の誕生と共に生まれたものだからです。
空間がないのであれば、宇宙の果には壁があるのかというと、そんなものも無いんです。
つまり、宇宙の外側は無という概念が適応される世界なんですが、それを想像できる人がどれだけいるでしょうか。
大半の人は、無と言うものが有る。もしくは、有るという概念の対比として無という存在を考えますが、無というものを単体で考えることは、かなり難しいですよね。

梵我一如を唱えたヤージュニャヴァルキヤは、その無というものを説明しようとして、あらゆる対象とアートマンは違うとして表現しようとしたんでしょう。
しかし、多くの人が『無』という概念を理解できなかった結果、あらゆる対象と比べて違うものがアートマンなんだね!として、アートマンというものが『何にも当てはまらない存在』として有るものだと誤解してしまったんでしょう。
それをもう一度、軌道修正したのが、ブッダの唱えた無我なので、基本的な主張は変わらないんじゃないかという意見の方の方で、私は納得しました。

ここまでの話をまとめると、イメージとして、自分を取り囲むように世界が存在するわけですけれども、その世界に存在する全てのモニには、そもそも実態というものが存在しません
そして、自分というものに焦点を当ててみると、自分を構成する全てのもの、つまり、肉体や、時分が行動を起こそうとすること、何かを見て感じること、そして、それらの元になっている五感、見たり聴いたり味わったり触れたりする事の全てが、
無いものだという事です。

とは言っても、私たちは普段の生活で、見て触れて味わって感じることによって、何かを感じ取りますし、何かをしようと思います。
この感覚が無いといわれても、いまいちピン!と来ないですよね。
ただ、この考え方は、西洋哲学の世界にも存在しますし、現代哲学のテーマになっていたりもする事なんです。

西洋哲学では、デカルトという人物が、方法的懐疑と言う方法によって、似たような境地に達しています。その際にデカルトが残した言葉が、『我思う故に我あり』という名言ですね。
この方法的懐疑を簡単に説明すると、自分というものを本当の意味で知る為に、一つ一つ信用できないものを取り除いていきます。

先ず、人間が一番情報を得ている目から考えていきましょうか。
人間の目は、可視光線と呼ばれる範囲内の電磁波を目から取り入れて、それを脳の中でイメージとして映し出すことで、物を見るという行為を行います。
しかしこのシステムは、頻繁にエラーを引き起こします。 いわゆる、錯覚ですね。

人間は、目から入ってきた光を直接投影しているわけではなく、一度、電気信号に変えて視神経から脳に情報を送り、その情報を元に、脳が中で像を作り出すわけですが、電気信号に変換する際に、
ノイズなどが入った場合は、見えていないはずのものが見えたりもします。
人の体は機械ではなく、生きているものなので、疲労によって本来の機能を行えなくなるといったことも頻繁に起こります。例えば、荒行や長期間労働によって、体を限界近くまで追い込むことによって、
このエラーは多くなっていき、幻覚が見えるようにもなります。
その他にも、ある種の薬物、幻覚剤を投与することによって、本来は見えていないものを観るといったことも体験できるようです。
この様な観点から観ると、人間の目というのは非常に不確かなもので、とても信頼できるようなものではないことになるので、本当の自分を構成するものからは取り除いて考えます。

これは、耳も同じですよね。自分が誰かに呼ばれた気がしたと言った勘違いは日常的にありますし、空耳なんて事もありますよね。
また、ある種の病気になってしまうことで、絶えず幻聴が聴こえるなんてケースも、よく耳にします。

では、もっと確かものだと思える、触ったり、痛みを感じるといったような感覚はどうでしょうか。
これも、到底信用できるようなものではありませんよね。例えば、事故などで手足を失った人が、無いはずの腕や足が痛いと訴える話はよく聞きます。
もっと身近な例でいえば、スマートフォンをマナーモードにして、バイヴ設定にしている状態で、ポケットに入れている人は結構いると思います。
この人達の中に、携帯が震えてメールが来たような感覚を感じたのに、実際に確認してみるとメールが来てないという経験をした方はいないでしょうか。

この様に人の感覚というのは、携帯が震えてもいないのに『震えた』と感じるし、手足が無いはずなのに、無いはずの手足が痛いと感じてしまう程度のものだったりします。
そんな感覚を、到底、信じることなんて出いません。
この様な感じで、どんどん信用出来ないものを切り捨てていった結果、全てのものが切り捨てられ、何も残らない状態になってしまいました。
しかしデカルトは、『何も信用出来ないとしても、それでも信用出来ないと疑っている自分という存在は確実に存在する』として、『我思う故に我あり』という言葉を残しました。

この様な感じで、人が有ると思いこんでいる全てのものは曖昧なものだという考え方は、後に西洋でも出てくるのですが、この西洋哲学でも、最終的に疑っている自分という存在だけは残しました。
ですが、東洋哲学ではその自分・我といった物も、無いものだと主張している分、考えとしては過激ですよね。

では、自分やそれを取り囲むものには、実態がないと思えた場合、どうなるのでしょうか。
この世界にあるものすべてには実態がなく、それを受け取る私達にも実態が無いのであれば、そもそも、苦しむといった概念が存在しませんし、死ぬといった概念も存在しないことになります。
無いものを壊すことは出来ませんし、無いものがこれ以上無くなることもありません。この境地に辿り着ければ、あらゆる苦痛と死の恐怖から脱することが出来るようになります。

では、この境地に達するために必要なことは何なのかというと、執着を捨てる事。言い換えると、煩悩を捨てる事です。
このあたりの理解というのは、非常に感覚的なもので難しいと思うので、言い方を変えて何度も説明しますが、煩悩というのは、単純な欲望のことではなく、私達が縛られている常識や概念の事でもあると私は解釈しています。
例えば、この地球上に住んでいる私たちには、上とか下といった、方向という概念が存在します。しかし、地球という環境から離れた環境に身をおいたとして考えてみてください。

下という概念は、固定された方向があるわけではなく、地球の中心部分の方向を指して下と呼んでいます。
しかし、地球の重力から開放されて無重力状態の環境になった瞬間から、下という概念は無くなりますし、当然、その反対の上という概念も無くなります。
上や下を基準に作られた右や左といった概念も無くなるため、方向という考え方が無くなります。

これと同じように、私たちは普段生きているだけで、様々な概念によって縛られていますし、それを基準にして物事を決め、その役割を果たす物に名前を付けていきます。
名前を付けることによって、役割を持った物という概念が存在し、役に立つものという概念が生まれると、役に立たないものといった概念が生まれて、優劣が生まれます。
ですが、その基準は誰が作ったのかというのを、縁起の法則に則って元を辿って考えてみると、概念や価値判断は人間によって勝手に決められたものであることに気付かされます。

今の社会でいうと、人々はただ、生活をしているだけなんですが、その生活のスタイルに対して『勝ち組』『負け組』という言葉を生み出して、特定の人達をジャンル分けすることによって、優劣が生まれます。
この優劣という概念に囚われて執着してしまうと、そこに優越感や苦しみといった概念が生まれます。ですが、その『勝ち組』『負け組』といった言葉は、絶対的な価値基準によって作られた言葉ではなく、誰かが自由気ままに勝手に作り出した概念です。
その言葉は、どこかの新聞社が自分達の新聞を売りたいが為に勝手に創り出した言葉であって、世界にその様な概念はそもそも無いんです。
そもそも無いという事に本当の意味で理解できれば、この言葉によって生み出された優劣に執着することもありませんし、よって、苦しむ必要もない事になります。

般若心経には、宗教的な事も書いてはあるのですが、敢えてそれは飛ばして、哲学的な部分にだけ焦点を当ててみたのですが、どうでしょうか。
ブッダは真理を得た後に、むかし一緒に修行をしていた5人の仲間に真理を伝え、その教えを聴いた5人が仏教を作ったとされていて、自身で宗教を起こしたわけではないとされていますが、この解釈を聞くと、何となくそれが分かるのではないでしょうか。
というのも、真理を得ようと一心不乱に修行を行うことは、その時点でブッダという存在が話した言葉に囚われて、執着している事になります。
ブッダは、真理を得るのに必要なのは執着を捨てる事だと主張しているので、宗教化した時点で、矛盾が生じてしまいます。

宗教とは、何らかの対象を崇拝して信仰し、その教えを守ろうとするわけですが、それこそが概念ですし、執着の元ですよね。
ブッダは、積極的に文章などを残していなかったようですが、それは、ブッダ自身がこの構造を理解していたからなのかもしれませんね。
この様な感じで、仏教の大本であるブッダは、宗教というよりも、かなり哲学的な考え方をしていたんですね。

では、これが真理ということで、一件落着なのかというと、個人的にはかなり疑問が残ります。
というのも、矛盾や説明不足の部分が存在するからなんですね。 これは、私が単純に悟っていないからとも言えるんですが、その立場からいうと、納得できない部分も有ります。

一番大きな疑問を挙げると、自由意志の有無ですね。
今回、話した事をまとめると、どの様に解釈したところで、人間に自由意志は存在しないことになります。何故なら、人間の五感も、それによって形成される心ですらも無いわけで、存在するのは縁起の法則だけということになります。
これは、普通に解釈すると、自由意志がなく、全ての物事は縁起の法則によって、運命として決定しているとも読み取れます。
ですがブッダは、この解釈を否定しているようなんですね。
つまり、人間に自由意志は存在しているとしていますし、運命論というのは無常という概念と対立する為、これも受け入れていないようなんですね。

そして、全ての煩悩、執着を捨てた果に涅槃にたどり着いたものは、果たして生きていると呼べるのかという問題です。
あらゆる煩悩が喪失した人間というのは、何も求めない者であり、そこには喜びも悲しみも楽しみも苦しみも存在しません。感情というものも失せてしまう事になる可能性が高いですが、それは人間なんでしょうか。
この疑問に対しては、後にニーチェという哲学者が、そんな状態においてでも人生を楽しめるものが『超人』だと主張していたりするんですけれどもね。

長く続いてきたブッダの話ですが、一応、今回で終了予定です。
次回についてですが、せっかくなので、仏教について少しだけ話していきたいと思います。