だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第15回 ゴータマ・シッダールタ(1)

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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第9回から12回では、インド哲学を中心に話し、前回と前々回では、東洋哲学で中心となる、体験としての理解や、言語の限界について話してきました。
簡単に振り返ってみると、この世のあらゆるものを瞑想によって同一視していき、最終的に宇宙まで拡大したのが、ブラフマンと呼ばれる宇宙の根本原理。
そして、自分の内側に焦点を当てて、最も根本的な部分にまで分解して到達する個人の根本原理を、アートマンと呼ぶ。
アートマンとは、『非ず、非ず』つまり、全てのものに対して『そうじゃない』としか答えられないもので、ただ、観察するだけの存在です。

このアートマンブラフマンが、同一のもの。つまり、宇宙の根本原理と個人の根本原理は同じものと主張したのが、梵我一如の考え方です。
この、梵我一如の考え方を、言葉やそれによる知識では無く、体験によって理解する事を重要視するのが、東洋哲学です。

では、言葉や理論による知識ではなく、体験によって理解するとはどういうことなのかというと、あらゆる物を直感として認識する境地とでもいうのでしょうかね。
彫刻家が、石を見ただけで、その石の中に完成形が埋まっているイメージを直感として認識して、それを掘り出すような感覚です。
言葉では言い表すことが出来ない、体験やイメージ。そして、それを実現するための方法や法則を直感で導き出すことが出来る状態が、体験によって理解する状態といえば良いんでしょうかね。

何故、言葉では無く経験を重視したのかというと、言葉というのは、そもそもが不完全なもので、人のイメージを正しく伝えることが出来る代物では無いからです。
例えば、私が皆さんに向かって、『赤色』を想像してみてくださいと言った場合、一人ひとりが思い浮かべる色は、似通っていはるけれども、それぞれ別の色でしょう。
燃えるような赤い夕日の赤を想像する人もいらっしゃるでしょうし、リンゴの赤を思い浮かべる方もいらっしゃるでしょう。
赤信号の色を思い浮かべる方や、ポストの色を思い浮かべる方もいらっしゃるでしょう。
それらは全て赤ですが、私が思い浮かべた色と全く同じかといえば、それは違うでしょう。また、そもそも生まれながらに盲目で目が見えずに、色というものを知らない方は、思い浮かべることすら出来ないかもしれません。

言葉とはその程度のものなので、色のような単純なものではなく、もっと複雑なイメージの場合は、それを言葉に変換して伝える事はそもそもが無理ですし、まして、それを他人に伝えて正しく理解して貰うとなると、更にハードルは上がってしまいます。
なので、言葉やそれを元にした理論では無く、体験による理解を良しとしたんでしょうね。

では、インド哲学では、何故、梵我一如といったものを、体験によって理解しようとしたでしょうか。
東洋哲学では、生きるということは苦しむことだという考え方があって、そこから、どのようにすれば抜け出すことが出来るのかという事を中心に考えていたからといわれています。
東洋系の宗教には、輪廻転生という考え方が有りますよね。
この輪廻転生を、『死んでも、また生まれ変わって来れる。』とか、『次に生まれ変わるなら、こんな感じで転生したい』とか『自分の前世は○○だった。』という事を無邪気に話す方も、現代では多いと思いますが、
そもそもの輪廻転生とは、例え死んで苦しみの世界から開放されたとしても、また現世に生まれ変わって苦しまなければならないという考え方で、その輪廻の輪から如何にして抜け出すか。
つまり、解脱するのかというのが一大テーマだったんですね。

そこまで、生きていくことが苦しいのと、疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれませんけれども、紀元前の世界では、今のように豊富に食料があるわけでもありませんし、娯楽が有るわけでもありません。
病気や怪我で簡単に死にますし、子供を産むという行為も命がけですし、そこまでのリスクを犯して産んだ子供も、成人まで育つかどうかも分かりません。
また、比較的裕福で、生活の心配がない支配者層の人たちの場合は、普段の生活に苦しみを感じなかったとしても、老いることによって今と同じ生活ができなくなる事。または、いずれ死んでしまうことについて恐怖し、思い悩みます。
生きていくのが楽しければ楽しいほどに、そこから絶対に退場しなければならないという状態は苦痛とも考えられます。

また、快楽や幸せや達成感などの感情は、基本的には苦痛とセットになっていますよね。
どういうことかというと、快楽というのは、言いかえれば苦痛ではない状態なので、快楽を得るためには、絶対に苦痛や苦悩・絶望というマイナスの感情が必要です。
これは、SMのMといった感じの意味ではなく、苦痛というものが存在するから、快楽が存在するということです。
仮に苦痛などのマイナス感情が一切なく、楽しいことだけで人生の時間を埋めていくと、それは楽しい出来事ではなくなってしまい、日常化してしまいます。
日常化してしまうと、そこに幸せを感じることが出来ず、幸せという実感を得るためには、1段階上の更なる幸福な状態を体験しなければなりません。そして、上の段階の幸福な状態を体験してしまうと、日常が幸せではない状態、つまり不幸な状態へと、1段階落ちてしまいます。
プラスという概念は、マイナスという概念がないと存在しないというわけですね。

他の感情である達成感なども同じで、コツコツと積み重ねた事が報われた瞬間に、達成感というカタルシスが得られます。
この、コツコツと積み重ねることは、基本的にはマイナス感情で構成されなければなりません。
仮に、コツコツと積み重ねること、そのものが楽しい状態なのであれば、ゴールは達成感を得られる目指すべきものではなく、今現在の、楽しい日常が終わってしまう悲しい出来事になってしまいます。
コツコツと頑張ること自体がが楽しいと感じる人にとっての楽しい人生とは、永遠にゴールを迎えない状態で努力することになってします。

映画でいうのであれば、『うる星やつら』の劇場版、ビューティフル・ドリーマーのような世界観になるんでしょうか。
この作品の事を余り知らない方は、良い作品なので、この後に話すネタバレの前に、放送を止めてもらって、是非みてもらいたいんですが…
ネタバレを気にしない方、既に観て、内容を知っている方に向けて、ネタバレを含んで話すと、この映画は、文化祭の為に、皆で一丸となって準備をするという、文化祭前夜の話がメインになるんですね。
そして、そこの登場人物たちは、忙しいながらも、楽しく準備をしているわけですよ。
つまり、この作品内において文化祭の当日というのは、目指すべきゴールのはずなんですが、それを迎えてしまうと、今現在の、楽しい 非日常的生活が終わってしまうという状態に置かれているんですね。

そういう気持ちを、登場人物の多くが共有していて、心のすきを付かれたからなのか、映画では、ある登場人物の能力によって、文化祭の前日がループし続けるとい世界に変わってしまうんです。
ただ、登場人物たちは、日常化する非日常的な生活が楽しいのか、その事を気が付かないままに、ループした文化祭前日を、過ごし続けるんですね。
この状態は、ゴールが永遠に訪れないという事を知らない状態で、つまり、永遠に繰り返される日常の中で、毎日、明日が文化祭と思い続けて行動し続けるのであれば、永遠に楽しい人生が続くのかもしれません。
ですが、そんな状態というのは存在しないわけで、存在するとすれば、非常識なことでも普通にありえる夢の中ぐらいですよね。
現実の世界では、達成感を得るためには、コツコツと自分の意に沿わないことを行い続けなければなりませんし、その中に楽しみを見出してしまうと、訪れる終わりが悲しいものになってしまいます。

これらの苦痛から抜け出す為に、必死に考えて、ヤージュニャヴァルキヤが到達した境地が、梵我一如だったわけです。
梵我一如の境地に至れば、誤解なく、自身は認識しているだけの存在と知ることが出来るので、この世のあらゆる苦悩から距離を置くことが出来ます。
また、全ての事柄に対して『非ず、非ず』という存在であるアートマンは、傷つけることが出来ずに破壊することも出来ない存在なので、自ずと、死の恐怖も感じなくなります。

ただ、この梵我一如の考えは、時代を経るごとに誤解され、間違って解釈されて行くことになります。
その間違いを、もう一度修正したのが、悟りの境地にたどり着いたとされるのが、ゴータマ・シッダールタ
いわゆるお釈迦様やブッダと呼ばれる人で、仏教の開祖とされている方ですね。
呼び方が色々と有るのは、ゴータマ・シッダールタという方が、釈迦族の王子さまで、その後、王子のみでありながら出家したという経歴から、お釈迦様と呼ばれたり
悟りを開いた人の事を、『目覚めた人』という意味で、ブッダと呼ぶところから、悟りを得たゴータマ・シッダールタさんの事をブッダと呼んでいたりするんですが、全て、同じ人の事です。
このコンテンツでは、短くて言いやすいという理由で、以降は、ブッダと呼ぶことにします。

という事で、これ以降 少しの間、ブッダについて話していこうと思います。
で、一応、誤解の無いように、最初に言っておこうと思うんですが、ブッダ仏教の開祖ということもあって、宗教的な話も結構出てきます。
また、開祖で尊敬の対象となっていたせいか、伝わっている話も、かなり話が盛られている事も多く、どこまでが本当の事なのかがわかりにくくなっています。
と言うかむしろ、ブッダについての歴史を読めば読むほど、本当のことが書かれているのかどうか が不安になるレベルといっても良いかもしれないですね。

まぁ、ただ、宗教で教祖を祀り上げるというのは珍しいことではないですし、キリスト教のような大きな組織でも、ありえないような奇跡が実際に起こったと主張しているわけですし、仏教だけ特別というわけでもないんでしょうけどね。
で、前にも少し話したとは思うんですが、このコンテンツでは哲学を中心に話しているので、今回からの話についても、宗教的側面ではなく、極力、哲学的なことに焦点を当てて話していこうとは思うんですが…
初期の仏教は、哲学的な考え方が多く、宗教とは切り離せないような感じで融合してしまっている部分も多いので、宗教的な話も結構入ってくると思いますが、予め、ご了承くださいね。

という事で、先ずはブッダの人生を、簡単に振り返るところから始めてみようと思います。

まず、インドにある釈迦族という部族の王様の子供、つまり王子が、出家するところから始まります。
この王子が生まれたときの逸話としては、生まれた直後に7歩歩いて、天を指差して『天上天下唯我独尊』って言ったなんて話も有りますが、宗教の開祖の誕生秘話として盛られている可能性が高いので、この辺りの事は流します。
この王子の名前が、ゴータマ・シッダールで、後に悟りを開いてブッダと呼ばれることになります。

このゴータマ・シッダールタですが、最初は、荒行を行います。
まぁ、インドといえば、荒行ですよね。ストリートファイターシリーズに登場しているインドのダルシムも、荒行によって手足を伸ばすことを可能にしてますしね。
何故、インドで修行というと荒行になるのかというと、単純に、流行っていたからだそうです。

では何故、荒行なんてものが流行っていたのかというと、梵我一如の考え方というのが関係してくるんです。
梵我一如というのは、冒頭でも言いましたが、宇宙と個人の根本原理は同じものだとする教えで、同じものなのであれば、宇宙、つまりこの世のすべてのことを知るためには、自分を知る必要があるということで、アートマンについて掘り下げて考えていく考え方でしたよね。
このアートマンについて考えていった先に、アートマンとは、『非ず、非ず』としかいえないもの、つまり、ただ意識として世界の観測を行っているだけの存在で、外から観測できない実態が存在しない物であるというところまで考えが及んでいきましたよね。

この考え方というのが、誤解されていくことになるんです。前回と前々回でも言いましたが、言葉は不完全なものなので、難解な考え方であれば有るほど、真意は伝わりません。
では、どのように誤解されることになったのかというと、自分が今まで認識していた自分。つまり、肩書はもちろん、肉体といった体も自分自身では無いわけだから、肉体とアートマンとを分離させる為には、肉体にどんなに辛いことが有ったとしても、動じない精神が必要になると解釈したんですね。
つまり、長期間、食事を行わないとか、顔を土の中に埋めてしまうとか、肉体をつらい状態に置いたとしても、アートマンは傷つかないし、アートマンは苦しいはずがない。
荒行による苦しみを乗り越えることが出来れば、アートマンを実感することが出来るし、アートマンの存在を体験として知ることが出来れば、同一のものである宇宙の根本原理であるブラフマンも体験として理解することが出来るという感じに誤解されたんですね。

そしてこの誤解というのは、修行者にとっては、非常に受け入れやすいものだったんです。
というのも、人間というのは、何らかの基準が有ったほうが、判断がし易いものですよね。例えば、これだけ頑張ったんだから、結果が出るはずといった感じの安心感といえば良いでしょうか。
頑張ったんだから報われるはず!と、根拠なく信じれる人間は多いですし、そういったものは拠り所にしやすいので、荒行のような頑張りがいが有る修行は、一部の人にとっては実行に移しやすいんですね。
また荒行の場合、7日間断食した!とか、私は10日間断食に成功したよ!とか、数値化しやすいですし、他人とも比べやすいので、張り合いがいが有りますよね。
そんな感じで、古代のインドの修行僧の間で、大流行していたようなんです。

その流行に乗る形で、ゴータマ・シッダールタも荒行に参加します。
また荒行の他にも、ウパニシャッド哲学者のように、瞑想によって真理にたどり着こうともします。
これによって、無の境地や非想非非想処に到達する事にも成功したようです。
この2つの境地についても解釈が色々有るので、私の解釈としてしか話せないのですが、無の境地は、雑念や煩悩といった、人間が本来有しているものを無に返す境地といえば良いんでしょうかね。
非想非非想処とは、その発展形のようなもので、『無』つまり無い状態というのは、有るという状態ではない状態でしか無いわけですが、その前提である、在るとか無いとか言う物ごと、無い状態にするということといえば良いんでしょうかね。
例えば、机の上の皿の上にリンゴが乗っている状態を有るという状態とするなら、無の状態とは、その状況からリンゴを取り去った状態が、リンゴがない状態となります。
非想非非想処は、机の上に皿が乗っている状態というのが、元々存在していなかった状態といえば良いんでしょうかね。限りなく死んでいる状態といえば良いんでしょうかね。

これは、私もよく分かってない状態なので、言葉を重ねるほど誤解されると思うので、それぞれで理解してもらうしか無いんですが、まぁ、そういう状態のことです。

この、瞑想による2つの状態と、荒行を体験したゴータマ・シッダールタは、これらの修行に意味が無いことを理解し、菩提樹のもとで3日間瞑想し、悟りの境地に至ってブッダと成ったとされています。
そして、ブッダはその悟りを人に伝えたくて、昔、一緒に荒行をしていた5人の修行僧のもとに向かいます。
この5人の修行僧は、ゴータマ・シッダールタの事を、荒行が辛くて逃げ出した腑抜けと思っていた様なんですが、悟りの内容を聞いて感激し、この5人が中心となって、仏教というものを作り上げてブッダを開祖としたのが、仏教が出来るまでの大まかな流れです。

次回は、仏教の考え方などを、哲学的な視点で観ていこうと思います。