だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第13回 言葉の限界(1)

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回までの東洋哲学の放送で、ブラフマンという宇宙の根本原理や、人それぞれが持つ『私』という概念、個人の根本原理である、アートマンについて考えていきました。
そして、宇宙の根本原理と個人の根本原理が同じであることを、体験として知る事が梵我一如という考えだという事について説明してきました。

で…今回の内容なんですが、前回の最後では、仏教について考えていくといっていましたが、その前に、東洋哲学で重要視している『体験によって知る』ということについて、考えていこうと思います。
これは、結論からいってしまうと、言葉や理論というのが不完全なもので、それをもって理解しようと思っても矛盾が生じてしまうからなんです。
なので、イメージによる理解や、それを元にした直感を重んじるということになるんでしょうね。

という事で、本題に入っていきましょう。
単純に、『知る』『知っている』または、『理解する』という状態ですが、日本語で言葉として伝えると、『知る』とか『理解する』としか、言いようのないもので、こう言うしか無い状態になるわけですが
知る・理解するというのには、様々な段階が有るんですよ。
これらの段階を知るために、先ず、様々な『知る』ということについて考えていきます。

まず、知るというのは、誰にでも行うことが出来ます。というのも、知っている人に聴いたり、本やネットの記事を読むだけで、物事を知ることが出来るからなんですね。
では、これらの、聞いたり読んだりする経験によって知ることは、体験によって知る事になるのかというと、そうでは無いんです。
それは、ただ知っているだけで、体験として理解している事にはならないんです。

では、どのようなものが、体験によって知るということなんでしょうか。
少し前の放送の、東洋哲学と西洋哲学の違いという回では、体験によって知るという状態を、自転車に乗る行為に例えましたので、復習のためにもう一度、自転車に乗る例で考えてみましょう。

自転車に乗ることが出来ない人間は、最初、自転車に転ばずに乗る方法を知りません。
その状態で、自転車に乗る方法を知るためには、実際に自転車に乗ることの出来る人間に、教えて貰う必要が有ります。
そして、実際に行動を起こして聴いてみると、『自転車にのる為には、一定以上のスピードを出す必要があるから、思い切ってペダルを踏み込むことが重要だよ』と教えてくれたとします。
この状態で、教えを請うた人間は、自転車の乗り方を知ったことになります。

では、知ったからといって、その知識を得た人間は、その時点で自転車に乗れるんでしょうか。
運動神経の良い人などは乗れるかもしれませんが、多くの人は、乗ることが出来ません。
じゃぁ、なんで乗ることが出来ないのでしょうか。 乗れる人に聞いて知識は持っているはずなので、その通り実行すれば 乗れるはずですよね。
でも乗れないのは、人から聞いて知識を得た人間は、記憶として知識を得ているだけなので、他の人から『自転車に乗るコツを教えて。』と聞かれれば、先程教えてもらったことを復唱することは出来るんですが
それを体験として理解していないので、乗ることは出来ないんですよ。

例えば、この知識を持っているだけの人が、いざ自転車に乗ろうと思った場合には、様々なことを考えます。
乗れる人に教えてもらったのは、『スピード出せば安定するので、思い切って踏み込むこと』ということなんですけれども、実際に実行しようとすると、殆どの場合は出来ないんです。
何故なら、この人は、『ゆっくりの状態でもコントロールが難しいのに、スピードを出すと、操作がより難しくなるのに違いない。その上、もし転んだ場合、スピードが出た分だけ大きな怪我をするんじゃないか。 』
こんなことを考えてしまって、なかなか、実行することが出来ないんです。
結果として、実際に乗りこなすためには、それなりの練習期間が必要となります。

では、何故こんな事が起こるのでしょうか。
この練習している人物は、実際に自転車に乗れる人間に、その方法を教えて貰うことによって、自転車にのるために必要な知識は得ていますよね。
後は、これを実行すれば良いだけなんですが、実際には実行することが出来ない。
これは、教えてもらった知識を、本当の意味で理解できていないから。つまり、体験として理解できていないからなんですね。

では、この人物が本当の意味で、自転車の乗り方を理解する場合は、どうしたら良いかというと、体験として、実際に乗りこなす以外にはないんです。
実際に力強くペダルを踏み込むことで、自転車が安定することを体験を通して実感するしか、理解する道は無いんです。
逆にいえば、この体験をする前の自分というのは、教えてもらったことに対して、心の何処かで教えを信用していなかったとも、本当の意味で理解していなかったともいえますよね。

そして、ここからが、知識や理解、体験として理解するという部分の難しいところなんですが、この人物が練習によって自転車に乗れるようになったとして、自分以外の他の乗れない人から『自転車の乗り方を教えて。』と教えを請われた場合
この人は、『自転車は一定速度以上を出すと安定するから、思い切って力強く踏み込むだけだよ。』としか、答えようがないんです。

でも、このセリフというのは、自分がまだ自転車に乗るという体験ができていない状態で、乗れる人間に乗り方を教えてもらった状態の時に、つまり、乗れないけれども他人から聴いて、知識だけ知っている状態の時に、誰かに尋ねられたとしても、同じ答えが出来ますよね。
つまり、体験として理解していても、体験としては理解が出来てなくて、知識だけを知っている状態の時でも、他人から問われた時には、同じ様な答えしか発言できないということなんです。
ここに、言葉の限界というものが有るんですよね。

つまり、相手が本当に体験として理解できているのか、本当は体験としては理解できておらず、知識として知っているのかというのは、その人間を外側から見ている人間には、見分けがつかないですし
仮に見分けがついたとしても、体験したイメージを、言葉を通して理解することも伝えることも出来ないということなんです。

身近な、その他の例で考えてみると、これを聴いている皆さんの年齢がどれぐらいかは分かりませんけれども、人生のうちで、教える立場になった事がある方も多いと思います。
例えば、職場や学校の部活などで後輩が入ってきたときだとか、子供に対してものを教えるときだとか、様々なところで、教える機会というのが有ると思います。
この際に、自分が教えた内容が相手に伝わっていないという経験をした方って、結構多いんじゃないでしょうかね。

例えば、相手が明らかな間違いをしているので、次から同じ様な間違いを起こさないためにも、言って聞かせようとするとかですね。
でも、日本で育って、同じ日本語を話しているはずの人間に、日本語で注意をしているはずなのに、話が通じない場合というのが、結構有りますよね。
少しシチュエーションは違いますが、ここでいっていることは、そういうことなんです。 先程も言いましたが、これが、言葉の限界なんでしょうね。

私の経験した例で話すと、私も社会人として働いていますし、立場の関係上、指示を出さなければならないことって、結構有るんですね。
で、私が働いている業種は、閑散期と繁忙期が割とはっきりしているので、閑散期は仕事がなく、細々とした仕事と掃除ぐらいしかすることがない事も多いんです。
この閑散期は、私は、技術を必要とする細々とした仕事を片付けたりするんですが、技術が無くて、する仕事がない人には、『掃除をしておいて』と指示をだすんです。
まぁ、この時期ぐらいしか本格的な掃除というのが出来なかったりしますからね。

でも、その指示を受けた人は、やらないんですよ。 というか、本人的にはやっているつもりなんですが、実際にやってる行動は、散らかしているだけなんですね。
もう少し具体的にいうと、忙しい時期でもする掃除というものが有ります。その際の掃除というのは、作業場の床に掃除機をかけるだけなんですね。
その人に対して、『いまする仕事がないから、掃除をしておいて』というと、作業場の床に掃除機をかけるという5分ぐらいの作業だけを行って、後は、床に座って休憩をし続けるわけです。
そこで、『忙しい時期にする掃除と、暇でやることがないときにする掃除は、違いますよね。』と注意して、もう一度、『掃除をしておいて』と指示を出しても、特に行動を起こさないんですよ。

では、何故こんな事が起こるのかというと、指示を受けた人は、掃除をするという事が、どういう事かということを、本当の意味で理解できていないからなんですね。
そこで私は、『掃除とはどういうことなんですか?』と質問します。人間は、相手がどの様な考えをしているのかを知るためには、言葉によるコミュニケーションを取る以外の選択肢がないので、相手が理解できていないと思うのであれば、理解度を知るためにも、質問しなければなりませんよね。
そうすると、その従業員からは、『汚いところを綺麗にすることです。』と答えが返ってくるわけです。
この答えは正しくて、私はこう返されると、言葉で何も言い返すことが出来ないわけですよ。 というのも、掃除にそれ以上の理解は必要ないからです。汚いところを見つけて、綺麗にするだけ。それが掃除なんです。

言葉のやり取りとしては、この従業員は、私の指示も理解していますし、掃除の意味も理解しています。
なので、その支持に従ってもらわないと困るわけですけれども、掃除をしないんですよ。では何故、支持された行動を取らないのでしょうか。
答えは簡単で、その従業員は、どの状態が汚れているのか、そして、どのような状態にするのが綺麗になった状態なのかというのが、理解できていないからなんですよ。
だから、その従業員の認識としては、掃除というのは、忙しい時期でも毎日行っていた、作業場の床を掃除機がけする事とイコールになっていて、そこから先の思考というのが無いんです。
その従業員にとっては、汚い場所というのは イコール 作業場の床で、そこを5分間、掃除機をかければ、キレイな空間が出来ると思っていて、そこに疑いを持っていないんですね。

ですから、この言葉のやり取りを、それぞれの認識としてみてみると、私の主観としては、部屋全体を見渡して、整理されていないところは整理して、ゴミを見つけたら拾って、掃除機をかけて、拭き掃除をして…といった感じの事を、まとめて行ってください。
つまりは、部屋の汚いところを見つけて、掃除をしてください。と言っているわけですが、聞いている側の従業員は、部屋の汚いところは作業場の床だけで、その床は、掃除機を5分かければ完璧にきれいになると思い込んでいるんですね。
だから、部屋の汚いところを見つけて、掃除をしてください。と指示をすると、それを聴いた従業員は、作業場の床を5分掃除機がけをして、全作業は終了したとして、休憩するわけですよ。
仮に床にゴミが落ちていたとしても、そのゴミを避けるように掃除機がけをしますし、動かせる荷物が置いてある場合、それを動かして掃除機をかけることもないんです。
ただただ、床に掃除機をかけるだけで、掃除は終了なんです。

ですから… 先程も言いましたけれども、同じに日本語を使ってコミュニケーションを取っているつもりなんですが、実際には、そもそも両者が使用している言語は違うものなので、コミュニケーションはとれていなかったということなんです。
なので、私がこの従業員に掃除を行って貰う場合、全ての箇所について、どの様に作業をしないといけないかを、いちいち支持しないといけないんですね。
床を掃除する場合には、ゴミは拾って掃除機をかけて、移動出来る荷物がある場合には、それを移動させて掃除機をかける。
移動させて掃除機をかけた後は、移動させたものを元の位置に戻すというのも、言わなければなりません。これを言わないと、動かしっぱなしで余計に散らかってしまうという状態になってしまうんでね。

床の掃除が終わったら、置いてある機械のホコリを払うとか、トイレ掃除をするとか、窓を拭く…といった感じで、全てのことに対して言わなければ、やってもらえないんですね。
で、こういう風に、やるべき事を全て言葉で伝えていくと、次に、別の問題が出てくるんです。
それは、聴いている側にとって、そんなに沢山、覚えられないという問題ですね。

確かに、一つ一つを覚えていこうと思うと、膨大な量になると思います。
閑散期の大掃除なんて、やりだしたら、それこそ幾らでも やるべきところを見つけられるもので、5分で終わるようなものでも無いですよね。
それを全て言葉で伝えようと思うと、それこそ、膨大な量になってしまいます。

しかし、実際にこちらが伝えていることは、たった1つのことなんですよ。
それは、『掃除をしてください。』って事で、その意味は、『汚いところを綺麗にする』という意味でしか無いものですよね。
そして、それを聴いた相手は、しっかりと言葉として聴き、その意味を理解しているんです。にも関わらず、意思疎通が出来ないんです。
これは、先程から言っている通り、同じ日本語を話しているにも関わらず、同じ言語を話していないから、意思疎通が出来ない状態になっているわけです。
では、同じ日本語なのにもかかわらず、何故、言語が変わってしまうのかというと、『掃除をする。』という言葉を、知識として知っているか、体験として理解しているかの違いなんです。

それでは、体験として理解するというのはどういうことなのかというと、今まで勉強してきた事に置き換えると… まぁ、厳密に言うと違うんですが、プラトンイデアという考え方が近くて、それを持っているかどうかという事になるんだと思います。
つまり、掃除というイデアを持っているかどうかという事になるのではないか?ということですね。
このイデアというのは、第2回3回辺りの過去の放送で話していますので、まだ聴いておられない方は、そちらを参考にしてください。

ということで次回は、体験をイデアに置き換えて、もう少し掘り下げて、言葉というものについて考えていこうと思います。