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【Podcast #だぶるばいせっぷす 】第10回 東洋哲学(2)『私』という存在への疑問

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回は、梵我一如という考え方について、簡単に説明していきました。
要約すると、宇宙の根本原理であるブラフマンと個人の根本原理であるアートマンが同じだと体験によって理解することでしたね。
そして、宇宙の根本原理であるブラフマンは、元々は『言葉』という意味しか持っていなかったのが、異質の2つのものを瞑想によって同一視するという方法によって、最終的には宇宙の根本原理になっていったのではないか、ということについて、話しました。

では今回は、個人の根本原理、『わたし』という存在について、考えていこうと思うんですが…
その前に、この放送では、私自身が理解した事を中心に話していて、私の認識その物が間違っている可能性があると言った注意を度々いわせて頂いてますけれども、この東洋哲学では、その傾向がさらに強くなると思います。
というのも、テーマになるものが主観的なものですし、それを経験によって理解するというのも、主観的なものです。
その為、ここで話すことが理解出来ないと思われるかも、多数出てくると思います。これは、私自身の伝え方が悪いということもありますが
最も大きな理由としては、テーマがそもそも主観的なものなので、それを完全な言葉で他人に伝えることが不可能からです。
ですので、もし、この放送を聞いて興味を持たれた方は、自分自身で考えたり調べたりしてみてください。

『私』という存在について考えていくわけですが、私という存在について考える際に、先ず必要なのが、私という存在について疑問を持つということです。という事で、先ずは疑問を持ってもらうところから始めたいと思います。
『わたし自身』が何なのかと質問された場合、哲学に接していない多くの人は、特に疑問も持たずに、自分自身を指差して、『これが私だ』というと思います。
しかし、東洋哲学に限らず、西洋哲学でも問題とされている『私』という存在は、そういったものではありません。

これは、人間に限らず、『その物』が、何故そこに存在しているのかという、もっと根本的な疑問で、非常に難解で、明確な答えというものは、まだ存在しません。
過去の哲学者達が、それぞれ自身を納得させるような説を打ちだしてはいますが、それを他人が聴いたとして、本当の意味で理解できるかどうかも疑問ですし、哲学者本人が納得しているかどうかも疑問だったりするんですけれどもね。

え…問題をわかりやすくするためにも、先ず、私という存在ではなく、物という概念について考えていきます。
例えば、自転車を思い浮かべてみましょう。自転車は、様々な部品を寄せ集め、それらを組み合わせることによって、この世に『自転車』として存在しています。
では、この自転車から、夜に点灯させる為に取り付けられている『ライト』を取り外してみましょう。
この自転車は、変わらず自転車なのでしょうか。それとも、ライトのない自転車は、自転車ではない、他の何かなのでしょうか。

この場合、多くの人が、『まだ自転車だ』と答えるのではないでしょうか。
では、このライトのない自転車から、ベルを取り外してみましょう。 これは、自転車なのでしょうか?
ベルを取り外した程度では、まだ自転車と主張する人が多いかもしれませんね。 では、サドルを取り外してみたらどうでしょう。
滅多にない事ですが、サドルだけを盗まれるケースというのも考えられますよね。この場合、これは自転車なのでしょうか。
この様な感じで、泥除け・ペダル・チェーン・タイヤなど、一つ一つ取り外した場合、どこからが、『自転車では無い、何か』に変わるのでしょうか。

フレームだけになった場合でも、まだ自転車と呼ぶのでしょうか。
そのフレームを、原料レベルまで戻した場合、それもまた、自転車なのでしょうか。
逆に、パーツを組み上げていく場合、どの段階から、『自転車』が出現するのでしょうか。ただの部品の寄せ集めから、それを組み上げていくことで、どこかの段階で自転車という概念が生まれるわけですけれども、その境界線は何処に有るのでしょうか。
これについて、明確に境界線を引くことが出来た人って、いらっしゃいますかね?

では、『わたし自身』というものを理解する為に、この、どこからが自転車かという問題を、人間に当てはめて考えていきましょう。
人間の場合、体の部品を切り分けていくと言うふうに考えるとグロテスクな感じになってしまうので、攻殻機動隊風に、体を機械に置き換えていくという形式で考えていきましょう。
攻殻機動隊というのはSF作品で、脳を含めた体のすべての部分を機械化出来る程に技術が進んだ世界で繰り広げられるストーリーです。

まず、貴方が腕を怪我したとして、その傷は治すことが出来ない程に深刻なので、腕を義手に交換するとします。
この時に、手術で腕を切り離して機械化させるわけですが、切り離した腕とそれ以外の体と、どちらが自分自身でしょうか。
殆どの方が、切り離した腕は私ではなく、義手をつけた、わたし自身が『私』だと答えるのではないでしょうか。
この形式で、体のパーツをどんどん機械に入れ替えていきます。
足を機械化して、胴体を機械化する。そんな感じで、頭以外の全てを機械に置き換えた場合、私という存在の大半は切り離されて、機械化されている状態となります。
その時に、私という存在は、何処に存在するのでしょう。

頭を残して全てを機械化ということは、9割以上の部分が機械化されているわけで、言い換えれば自分を構成している9割は別の物に入れ替わっているわけです。
この時に、多くの人は、『それでも脳が残っているんだから、こちらが自分自身だ』と機械の体を指差して答えると思います。
しかし攻殻機動隊の世界が凄いのは、その『脳』も、機械化が可能なんです。
脳というのは、体の五感を電気信号に変えて、その電気信号を脳の中で相互に受け渡しているだけに過ぎません。
この構造を完璧に解明できれば、機械化することは絶対に不可能というわけではないでしょう。そして脳までも電脳化、つまり脳を機械に置き換えた時に、それは果たして私と呼べるのでしょうか。
この時、体の状態としては、元の体の部分は一切残っておらず、100%機械化された状態です。

100%、体のパーツが入れ替わっているにも関わらず、それでも『私』と呼べる状態を考えた場合、それは、100%機械の体に入れ替わった体でも、『私』というものを認識している意識があるかどうかが問題になりますよね。
攻殻機動隊という作品では、その『私』という意識を、『ゴースト』と読んで、そのゴーストを持つものだけを人間だと位置づけているんですね。
というのも、人間の完全義体化が可能で、脳ですらも交換可能となる技術が生まれているということは、AIの研究も相当進んできるわけですし
人間を模した擬態に、人間とそっくりに振る舞い、人間と同じように考えて行動できるAIを搭載した場合、それは人間なのかという問題が出てきます。
しかし、この作品内では、それはロボットと位置づけていて、人間と境界線を引いて区別しています。
何故ロボットと言い切れるのかというと、ロボットには『ゴースト』がないからという理屈ですね。

ただ、攻殻機動隊という作品は、この、『私』や『ゴースト』の存在を考えるための作品なので、作品内で高度に発達したAIが、ゴーストを持つ可能性というのも示されています。
有機物ではない、100%ニンゲンの手によって作られた無機物がゴーストを宿した際に、それは人間と呼ぶのかという問題ですね。

で…こういう話をすると、『それはSFの作られた話であって、現実的じゃないですよね。』という反論をされる方も、いらっしゃると思います。
しかし、一概にそうともいえないんですよ。というのも、この話は、現実の私たちに既に起こっている問題だからです。

人間の体というのは、子供は70%、成人でも60%が水で出来ているなんて話を聴いたことがある人も多いと思います。
この水ですが、私たちは日々、水分補給したり、食事で野菜に含まれる水分等を取ることで補って、余分な分は尿として排泄していますよね。
つまり、体の60%以上の水というのは、定期的に新しいものに入れ替わっているわけです。

それだけでなく、私たちは生きているだけで新陳代謝を行います。
人間を構成しているタンパク質部分は3ヶ月程度で完全に入れ替わり、それよりも長い時間がかかる骨の細胞でも、2年で入れ替わると言われています。
つまり、私達の体は、2年毎に総取っ替えされているのと同じという事です。つまり、考えようによっては、2年前の私と2年後の私は、全くの別人とも言えるわけです。
しかし私たちは、2年前も現在も、同じ『私』だと主張しますよね。 これは、何を根拠にしているのかというと、2年前の自分と現在の自分とで、意識が継続しているからですよね。

では、意識が自分を自分足らしめているものであったとして、この意識とは何処に宿るのか、何故生まれるのか、そもそも、意識なんてものが本当に存在するのかという疑問が生じてきますよね。
そして、仮に、意識というものが存在したとして、その意識は、人間の取る行動にどれだけ影響をあたえるのかというのも、問題になってきますよね。
多くの方は、人間を巨大ロボットに例えると、意識とはパイロットのことで、パイロットの思い描くようにロボットは動くと考えていると思います。
別の言い方をすると、肉体に魂が宿っていて、その魂が肉体を支配して動いているという発想ですね。
この考えに対して、何の疑問も持たない方は多いとは思うんですが、そういう結論は出ていませんし、そう考えると説明できないような現象というのは、世の中には沢山有るんですね。

これらの疑問については、冒頭部分でも話したと思いますが、西洋哲学や、それをルーツとする科学では、今だに結論は出ていません。
意識は『脳』に宿っているんでしょ?と短絡的に思われる方も多いとは思いますが、これも、一概にそうも言えなかったりするんです。

これらの、意思についての考察は、次回、私の持論なども含めて、話してみようと思います。