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【Podcast #だぶるばいせっぷす 】第8回 西洋哲学と東洋哲学の違い

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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  • 木村 ゆう
  • 社会/文化
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前回までは、ギリシャ時代を中心とした西洋哲学について、私の認識を元に説明してきたわけですが、今回からは、東洋哲学について考えていこうと思います。
西洋哲学と東洋哲学の違いを簡単に説明すると、西洋哲学は知識や理性を重要視して、順を追って世界を読み解こうとしたり、説明していこう と していきます。

一応 誤解の無いように最初に言っておきますが、東洋哲学は結構早い段階で、仏教といった宗教と結びつきます。
この放送を聞いた方の中には、私が何らかの宗教の勧誘目的で放送していると思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、そんなつもりはありません。
というのも私自身、宗教というものを知識で知っている程度で、何かの団体に入信しているわけではないからです。

私自身は、日本人でありがちな、クリスマスにはケーキを食べて、年明けには誘われれば初詣に行く。
まだ結婚はしてませんが、する事になれば結婚式には神父に依頼して来て貰うことになるでしょうし、自分自身や身内が亡くなった場合は、お寺に連絡するような人間なので、そういった心配はありません。

という事で話を戻して、前回までの話を簡単に振り返りながら話しますと、ギリシャ人は最初、自分達の説明の出来ない事を、神様を使って説明しようとしました。
雷が落ちたら、雷の神様であるゼウスが怒ったからだといった感じで説明し、考えても分からないものは神様を使って、神話の世界に押し込むことで説明していきました。

この考え方は、前にも言ったと思うんですが日本でも同じですよね。
日本でも、分からないことが起こった場合は、妖怪のせいにしていましたし、また、全てのものに神様が宿っているという八百万の神という考え方もありますよね。
これと同じような感じで、ギリシャでは自然現象や美といった概念的なものにまで神様を当てはめて、神話によって世界を理解していこうと考えます。
ただ、ギリシャ時代の人口は少なく、様々なところに点在していた為、それぞれの部族がそれぞれの神話を考えて行くことになります。

当時は移動手段も限られていた為、最初のうちは、部族同士の交流なども頻繁にあったわけではなく、それぞれの部族がそれぞれで作った、バラバラの神話を信じていることに問題はなかったわけですが
文明が進んで食料の確保などが比較的容易になる事で、各部族の人口は、どんどん増えていくことになります。
人口が増えると、当然のように、人々が暮らす村や町の面積が大きくなっていきます。そうすると、各町との距離も縮まっていくため、各都市との交流が生まれるようになります。

そうすると、各部族が伝えてきた神話に、矛盾が生じてくるようになります。
これは当然ですよね。各部族がそれぞれ勝手に、解明できない現象や概念に対して神を当てはめていっているので、部族ごとに神様の名前が違ったり、解釈が違ったりする事は仕方が無いことですよね。
この矛盾に対し、相対主義という考えを生み出すことで、解決をはかろうとします。

相対主義は、簡単に言うと、物事の理解というのは人それぞれの主観に委ねられているのだから、人それぞれで感じ方や考え方が違ったとしても仕方のないことだという考え方です。
同じ温度の水を触ったとしても、人によっては『冷たい』と感じるし、別の人は『ぬるい』と感じるかもしれない。
それは、どちらかが間違っているのではなく、人それぞれの考え方次第という考え方で、この考え方に照らし合わせれば、神話の解釈が他人事に違ったとしても不思議ではないという考え方です。

これに対し、ソクラテスが異論を唱えます。
相対主義の考え方では、人それぞれに感じ方が違う為、絶対的な価値観や真理がないことになります。
絶対的な真理が無いとした場合、人はそれ以上に考えることをしなくなる為、ソクラテスは再び人が考える状態を作り出すために、絶対的な真理を担ぎ出して、『無知の知』という考え方を生み出します。

この考えに影響を受けたプラトンは、絶対的な究極の存在を考えるために、イデア論を考え出し、その弟子のアリストテレスは、イデア論を批判し、現実に存在する物を観察する事を重要視して、化学の基礎を作り上げます。
この様な感じで、西洋哲学は、現状の矛盾を理論によって説明しようとしたり、その理論を発展させたり、時には理論を批判することで、新たな考え方を生み出していくという方法で、世界を解明していこうとします。
理論を一段一段積み重ねるように、一歩一歩進んでいく姿勢は、基礎研究を踏み台にして新たな発見や理論を構築する科学の考え方と、基本的には同じですよね。

この様な考え方のため、哲学というのは、読解力さえ有れば、前提書を読んで順を追って知識を吸収して高めていくことで、誰にでも理解をする事が可能となっている構造になってるようなんですね。
とはいっても、哲学書の、特に原書をそのまま直訳したような本は、非常に読みにくい書き方で、学ぼうとする人間をことごとく挫折に追い込むような感じになってますけどね。
正に、初心者殺しって感じの書き方なので、興味を持つ人は多い分野なのに、多くの人が挫折したりします。
こんな放送をしている私も、何回も挫折していたりします。
この様なジャンルのせいか、哲学は、哲学書1冊につき、入門書が1万冊有るなんて言われ方をしているぐらいですからね。
マルクスの本を少し読む)

これに対して東洋哲学は、自分の内面に焦点を当てて考えていき、ある日突然、真理を得た人が登場します。
そして、その人の言葉を基にして、周りの人がそれぞれ解釈を行う事で、大量の解釈が生まれていきます。
前にも紹介した、史上最強の哲学入門という本の東洋哲学編には、悟りを得た人を頂点としたピラミッド状のものが形成されると書いてありますね。

西洋哲学との違いを簡単に書くと、西洋哲学は、自分の外側にある世界や仕組みについて、辻褄を合わせる為の理論や解釈が生まれ、それを踏み台にする形で、新たな理論が生まれていきます。
これをひたすら繰り返して、究極である真理を追求する為に試行錯誤するわけですが、その一方で東洋哲学は、自分の内面に焦点を当てて考察を始め、ある日突然、真理を得た人が登場します。
その真理を得た人が、まだ真理を得ていない人達に、真理とは何なのかという事を解説していき、それを聴いた人達が、解釈本を出していきます。
人には寿命が有るので、悟りを得た人もいずれは亡くなってしまうわけですが、そうなってくると、それ以降の人達は、悟りを得た人に教えてもらった人の解釈本などを読み漁って、また解釈本を出していく。

これをアニメや漫画に置き換えると、オリジナルが発表された際に、コミケで二次制作が大量に生まれ、その二次制作に影響を受けた人が、さらに二次制作を手がけていくように、東洋哲学は、真理を得た人を頂点として、様々な解説や解釈本が出されることで、裾野が広がっていきます。
ただ、裾野の末端の方は、解釈本を呼んで独自解釈して書かれた本を読んで、解釈したものを本にして、その本を読んで独自解釈して書かれた本を…という感じで、大本の真理とはかけ離れたものになっていきそうですけどね。

つまり、西洋哲学と東洋哲学は考え方や構造自体が真逆になっているという見方も出来ますね。
西洋哲学が、無知の状態から順に知識を積み重ねることによって、山頂を目指す一方で、東洋哲学は、ある日『自分は頂上にいる』と宣言した人が出来て、その人を頂点とした山が生まれるからですね。
また、逆という見方でいえば、西洋哲学と東洋哲学は、真理についての捉え方や考え方も違います。



先程から言っている通り、西洋哲学は、理性的に考えて知識を蓄えていき、最終的に知識・理性によって真理に到達しようという考え方です。
その一方で東洋哲学は、、真理は体験だとします。
この、体験という考え方は、かなり斜め上な発想すぎて、西洋哲学的な考えをされる方には受け入れ難い方もいらっしゃるでしょうし、真理が体験と聴いて、余りピンッと来ていない方もいらっしゃるとは思うので、もう少しこの事について説明しますね。

真理が体験とはどういうことかというと、真理は原則的には他人に伝えることが出来ないんですよ。
この部分が、西洋哲学と決定的に違うところです。

例えばですね、ソクラテスに関する話を後世に伝えるために、弟子のプラトンソクラテスについて書いた『ラケス (対話篇)』という話があるんですね。
この話の中で、ソクラテスは有能な将軍に対し、『勇気とはどんなものなのかを知っていますか?』という質問をして、将軍はその質問に対し、『当然、知っていますよ』と答えるんです。
そこでソクラテスは、『勇気について知っているのであれば、当然、その事を言葉にして説明することが出来ますよね。 私に対して説明してくれませんか?』と言うんですね。
その後の展開は、この将軍がどんなことを言ったとしても、様々な可能性を出して、将軍の揚げ足を取り続けて、『貴方は、勇気について知った気になってただけですね』みたいな感じの話になるわけですけども…

このやり取りを見ても分かる通り、西洋哲学は、知っているのであれば、それを言葉にして説明できるということが前提となっています。
逆にいえば、西洋哲学的な考えでは、説明さえ出来れば理解していることになります。

それに対して東洋哲学は体験なので、同じ体験をしている人と共有することは出来ますが、それを言葉によって説明することは出来ないんです。
ですから当然、言葉でどんなに説明をしたとしても、それが体験を伴っていなければ、悟りを得たことにはなりません。

理解しやすいように、例えば、自転車を乗るときのことを考えてみましょう。
自転車というのは、スピードが出れば出るほど安定して、転びにくくなります。
その為、転ばないように自転車に乗るコツは、思い切ってペダルを力強く漕いで、一定以上のスピードを出す以外にはありません。

西洋哲学的な理解でいえば、自転車に乗る方法を知っている状態になる為には、既に乗れる人にコツを聴いて、『スピードを出すと転びにくいよ。』という事を教えてもらって、知った時点でOKのようです。
というのも、先程のソクラテスの勇気の理解を思い出してほしいのですが、西洋哲学での理解は、知識を持っていて、それをもとに他人に説明ができる事が理解なので、それが出来る状態になったということは理解したと言うことになるんでしょうね。

しかし、東洋哲学の場合は違います。東洋哲学での理解は体験なので、実際に自転車に乗ったという体験を得なければ、理解したことにはならなりません。
また、この体験というのは、言葉にして説明がしにくいものなので、言葉にしなくても良いし、それを行ったとしても本当の意味で相手に伝えることは出来ません。
ですから、先程挙げた、将軍とソクラテスの勇気についての問答を思い出してほしいのですが、将軍は、『勇気について知っている』を言ってるわけで、これは、ある種の体験が元になって理解しているわけです。
その為、他人に本当の意味で伝えることも出来ないし、理解しているかどうかを確かめるためには、色んな場面での出来事について、勇気が有るか無いかを判定していくことでしか表現できないことになります。
つまり登用哲学的な観点から見ると、この将軍は、勇気について知った気になっていただけではなく、知っていたと考えることも出来ますよね。

また、理論よりも体験を重視するという事は、他人に説明する時は、他の物事に例えても良いし、時には嘘をいっても良いとも考えられます。
何故、嘘が許されるかというと、嘘を言われた本人が、それをキッカケにして理解を体験できれば善いと考えるからですね。

嘘の例を一つ挙げると、『キサー・ゴータミー』という方についての話が有名です。詳しく知りたい方は、『キサー・ゴータミー』で検索したらたくさん出てくるので、調べてみてください。
簡単に内容を紹介すると、我が子を亡くした母親であるキサー・ゴータミーが、仏陀の下を訪れて、『私の子供が病気なので、知恵を貸してもらえませんか?』と相談に来ます。
抱きかかえられた子供は、どうみても既に亡くなっているのですが、ブッダはその事には触れず、『家族が誰も死んでいない家を見つけ、その家の庭に生えているケシを与えると、病気は完治しますよ』と嘘をつきます。
それを聴いた母親は喜んで、早速、村の家という家を訪れて、『この家では、誰も死んでいませんか?』と聴いて回るのですが、どの家も、誰かが死んでいる事を知り、死別した人間のことを話す家族の何とも言えない表情を何度も見ることで、母親は子供の死を受け入れたという話です。

ブッダの教えは明らかに嘘なのですが、大切な子供の死を受け入れられない母親に向かって、『貴方の子供は死んだので、諦めなさい』と正論を言ったところで、母親は聞く耳を持ちませんよね。
この母親にとって重要なのは、落ち着く為の時間と、同じ様に大切な人をなくした人達から話を聞くことですが、これを告げたところで、母親は聞く耳を持ちません。
そこでブッダは、母親の主張に耳を傾ける形で嘘をいうことで、効果的な行動を取るように導いたというわけなんです。

この様な感じで、東洋哲学では、体験を基にした理解が重要視され、教えも 体験を促すような嘘が散りばめられていたりします。
この辺りの仕組みが、東洋哲学がわかりにくくなっている大きな原因になっているようです。

先程も言いましたが、東洋哲学では、真理を得た人・悟った人というのが、まず最初に現れます。
そして、その人の教えや助言を周りの人間が聴いて書き写した解釈本というものが大量に作られ、その解釈本を読んで理解した人が、さらに自分の解釈をもとに解釈本を作り出すことで、裾野が広がっている状態です。
ここで重要なのは、解釈本を出している人達は、まだ真理を得ていないということです。
その為、ブッダが説明の為に話した嘘も、周りの人間はそのまま書き写すことになります。

ただ、先程の『キサー・ゴータミー』の例を思い出してもらってもわかりますが、この嘘は、我が子を亡くし、その事実を受け入れることが出来ない母親の為に、カスタマイズされた嘘です。
その状態、もしくは似たような状態の人間しか、この嘘によって体験を得ることは出来ないのですが、この嘘の助言も、普通に解釈本に書いてあったりするそうなんです。
この例の場合は、まだ状況が分かりやすいので、間違った解釈をしなさそうですが、こんな分かりやすいものばかりではなく、状況が想定しにくいような微妙なものも結構沢山有る感じなんですね。
なので、同じ様な状況に陥ったAさんとBさんに全く正反対のことを言っていて、それがそのまま解釈本に書かれて、後世の人は、その解釈本を読んで独自解釈を行っていくので、訳がわからないくなっていき、西洋哲学とは違った意味で、難解になっているようですね。

まとめると、西洋哲学は理性を重視したボトムアップ型で、前提本を読むことで、大抵の人の主張は理解できるように作られていて、東洋哲学は体験を重視するトップダウン型で、下に行けばいくほど解釈についての解釈といった感じで、主張がぼやけていってしまうものということですね。