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【Podcast #だぶるばいせっぷす 】第7回 西洋哲学 (6) 自由は皆が欲しているのだろうか

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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  • 木村 ゆう
  • 社会/文化
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前回は、アリストテレスが、国家の構造をどのように認識していたのか。そして、それを構成している奴隷について、どの様に考えていたのか
また、その思想が現代にどのような影響を与えてきたのかについて考えていきました。

今回は、では何故、『奴隷は奴隷になるために生まれてきた』といった考え方になったのかについて考えていきます。
これは、アリストテレスが主張した、四原因説という考え方が、元になっているんだろうと思います。
四原因説は、この世にあるもの全ては、四つの原因によってもたらされているという考え方です。

この考え方は、まず、物事を2つに分類します。
質料因と形相因ですね。
この四原因説の説明で頻繁に用いられる銅像を例に挙げて話してみますと 
銅像というのを質料因と形相因に分けるわけですが、この時に質料因は何に当たるのかというと、原材料となっている銅に当たります。
では形相因とは何かというと、その銅を銅像たらしめているものですね。

この形相因は、更に2つの事柄に分けることが出来ます。作用因と目的因です。
作用因というのは、原材料の銅を、像のように見せるために加工する作業のことです。
そして目的因は、その銅像を作ろうと思った目的です。 この4つの原因 質料因・形相因・作用因・目的因は、全て、目的因によって主導されます。

例えば、ソクラテスという偉大な人物を後世に伝えたいと思った時に、その方法・手段として、銅像をつくって残そうという目的が生まれます。これが、目的因ですね。
その目的によって、青銅が取り寄せられて(質料因)、それが職人の手によって加工されて(作用因)、ソクラテスという人物をかたどった像(形相因)を伴った、銅像が出来上がります。
つまり、物事をなしている原因となっているものを探ると、4つの原因が出てきて、その原因を主導しているのが目的というわけですね。
この銅像の場合、銅像を作る目的がなければ、そもそも銅を発注しなかったし、職人も雇わないので銅像というものがこの世に誕生しませんよね。

この四原因説に基いて考えると、この世にある物事には全て目的があって、その目的を遂行するために存在しているって事です。

これを奴隷に当てはめると、奴隷というのは、奴隷となる目的で生まれてきたので、体も頑丈に出来ているし、肉体労働をした程度では壊れないように出来ている。
その一方で、目的が奴隷である以上、自分自身で考える理性は持ってないので、理性のある人間が主人となって、指示出ししてあげるべきと考えたんです。
だから、アリストテレスは、奴隷には政治の参加、つまり選挙権などを認めていないんですね。

この考えは、前回にも話した通り、今の世の中で暮らしている私達にとっては、レイシスト的な考え方のようにも感じるんですが、ただ、だからといって、一概に完全否定することも出来なかったりするんですよね。
誤解しないで欲しいのは、奴隷の子は生まれながらにして奴隷だって言っているわけではないですし、人が人を支配すべきという考えでもないですからね。
ただ、皆が全て、自由を求めているのかというと、違うという話なんです。

一つ例を挙げると、アルスラーン戦記というアニメ化もされた物語があるんですね。もとは小説みたいなんですけども。
この物語は架空のもので、舞台となるのは奴隷制度があった古代の都市で、主人公は、大きな国の王子なんです。
そして、絶えず隣国と戦争をしている様な世界設定なんですけれども、ある時、戦争で王である父親が負けてしまい、国を敵に取られてしまうんです。
そこで、自分の国を取り戻すために、王子は少ない部下を連れて、放浪の旅に出るって感じの物語なんですが、旅の道中で、奴隷反対を主張する人物を家臣に加える事になるんです。
理由は、その人物が非常に優秀だったということも有るんですが、王子 自体も、奴隷のあり方に疑問を持っていたということもあって、皆が自由になれる社会というのを目指してたからなんです。

その人物を家臣に加えて、しばらく放浪するんですが、別の土地に訪れた際に、そこを治める領主と争うことになって、結果として領主を倒すことになったんですね。
その後、主人公のアルスラーン王子は、急いで奴隷のもとに向かって、『お前たちは自由だ!』って知らせるんですけれども、奴隷たちは困惑してしまうんです。

そして、その内の一人が、『お前は領主様を殺したのか!』といって、仇を取る為に王子に襲いかかってきて、それを観た他の奴隷も、王子一行に襲いかかっていくんですね。
この奴隷たちの行動を観て、今度は王子は困惑してしまうんです。
それを観た、奴隷解放派の家臣は、冷静に何が起こっているのかを、自身の過去を振り返りながら説明するんです。

この家臣は、自身も領主の家の生まれだったので、奴隷を従えていたんです。
ただ、自身は奴隷反対派だったので、父親が引退して自身が主になった際に、奴隷を開放して自由にしたんです。
その対応に、奴隷は、最初は自由を喜んだわけですけども、それから数ヶ月が経つと、みんな、また自分のところに戻ってきたんです。
そして、元領主に向かって、『また仕事を与えてください』と懇願したんです。

これは、何を意味しているのかというと、良い領主の元では、奴隷は指示された事をこなすだけで、安定した生活が出来るので、自由よりも奴隷のほうが良いと考える人間もいるという事なんです。



他には、銃夢というSF漫画で、こんなセリフが出てくるんです
「自由なんてのは強者の特権だ。俺は自由より犬の首輪が欲しいんだ」
これは、自由というのは、それを勝ち取って使い切れる力量がある者だけの特権であって、自由を使いこなす能力のない人間にとっては、無用の長物だって言ってるんです。
それよりも、他人の支持に従っている方が気が楽で、安心できると言ってるんですね。
この様な考えの人間っていうのは、思っているよりも多いと思います。

例えば、漫画やアニメのようなフィクションの世界ではなくて、私達が住む現実で考えてみましょうか。
高校や大学の卒業が迫ってきた時に、学生というのは、先ず、何を行うでしょうか。 就活ですよね。
自分の考えたプランで、世の中に対して挑戦しよう!っていう意気込みで、起業する人間て、全体の何%いるでしょう。人数でいえば、圧倒的少数になると思いませんか。

ただ、社会人1年目からいきなり企業というのはハードルが高いですから、もう少しハードルを下げて考えてみましょう。
最初はノウハウや技術がないから、それを吸収するためにも、とりあえず就職。という事も考えられます。
けれども、では果たして、その中のどれ位が、独立・起業するでしょう。

最近は、企業がブラック化してきているという話題をよく聴きますけれども、自分で事業を起こしてフリーになれば、休みも自分で設定できますし、人間関係なんてのも自分で選べそうですし、良さそうですよね。
でも実際に起業をしないのは、起業には、それ相応のリスクが伴うからですよね。
まず、仕事を自身で取ってこなければ、収入を得ることが出来ませんし、休めば休むほど、ダイレクトに収入が減ることにつながります。
就職して会社に属する場合は、1ヶ月会社に行けば、とりあえず給料はもらえるわけですけれども、起業して自分で事業を経営する場合は、給料どころか、最初は設備投資でお金が出ていくばかりですよね。

フリーというのは、一見気楽そうに見えて、リスクを自分一人で全部 抱えるわけですから、その覚悟と実力がない人間には、無理なんですよ。

後に、哲学者でサルトルという人物が登場するんですけれども、その人物は、「人は自由の刑に処されている」と主張しているんですね。
自由の刑とは何かというと、人間が本当の意味で自由なのであれば、目指すべき目的・ゴールも全て、自分で設定しなければならないし、見つからなければ探し続けなければならない。
それに伴う苦痛やリスクも、自分が引き受けなければならない。
これは、自由に振る舞わなければならないという刑罰を処せられているようなものだという意味ですね。

この刑罰を避けるために、自分ではこれらのことを考えず、他人に指示を仰いで、ただただ、それをこなしていく という選択をする人も、結構な割合でいるんです。
人に従うという選択肢を選んだ場合は、責任を自分で追わなくて良いですからね。 主人に責任を転嫁できるわけで、考えようによっては楽なんですよ。
この態度は、観ようによっては、奴隷のようにも見えるわけですよ。

誤解しないで欲しいのは、だからといって、指示待ちをして、自ら奴隷に成り下がるような奴は駄目だと言っているわけではないんです。
指示待ちをしてくれる人がいなければ、そもそも、組織というものは生まれませんし、大きな組織でなければ行えない仕事も沢山有るので、人間が社会生活を行う上では、この様な考えの人は絶対に必要ですし
この様な考え方だからといって、見下される事もないんです。

え 前回の差別の話と、今回の話がだいぶ長くなってきてしまって、本題が何だったのかというのがわかりにくい状態になってしまったので、一旦仕切り直して、アリストテレスの政治の話に戻りましょう。

アリストテレスは、共同体である国は、村が集まって出来ていて、村は、家族が集ってできていて、家族は、主人と妻と子と奴隷によって出来ていると主張しましたね。
そして、人間には支配する側とされる側というのが生まれつき決まっていて、支配される側の奴隷などには、考える頭がないので、選挙権は認めてなかったんです。
で、考える頭が有る支配する側の人間である主人は、自身で考える理性を持ってるので、自身が善と思っている行動を取る。そのように出来ていると考えます。

ただ、一人の人間が持っている善の認識が絶対的に正しいかはわからないので、それぞれの家族の主人が善のあり方を意見交換することで、村としての善を打ち出す。
次に、村の代表者が、それぞれの意見を持ち寄って、共同体としての善を検討し合えば、そこで生まれた善の認識は、個人個人のもつ善が反映さて
極端に個人の利益に偏った善などは淘汰された、良い国となるはずと考えるんです。
ですが、そもそも考える能力を持たない奴隷などは、目指すべき善を持たないので、選挙権は与えないとしてるんですね。

これをそのまま現代に適応することは難しいです。 そもそも現代では奴隷を認めてないですし、生まれついての奴隷なんてものを認めるべきでもないですからね。
ですから・・・ これは個人的な考えになるんですけれども、この考えを現代に適応する場合、選挙権を免許制にするって考えもありますよね。
先程もいいましたが、自分自身で考えたくなくて、指示を仰いでいたいって人はいますよね。
また、前回も言いましたが、政治のことを語る、人が話しているのを聴く、そもそも考えるのが面倒くさいと考える人もいます。
こういう人達は、共同体がどのように有るべきか興味が無いわけですから、選挙権は必要ない。

選挙権が欲しい人は、自分が共同体の未来に対してどの様な意見を持っているのかを主張して、勝ち取るような免許制というのも、一つの考えですよね。
ただ、前回のIQテストの くだりでも言いましたが、何らかのテストをして許可を与えるという方式にすると、そのテストによって、特定の思想の人だけに免許を与えるというのも出来なくはないので…
この辺りは、難しいのかもしれませんね。

という事で、時間もいい感じになってきたので、今回はこの辺りにしようと思います。
長く続いてきた西洋哲学シリーズは、一旦休憩ということで、次回から、東洋哲学について少しだけ考えていこうと思います。