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【Podcast #だぶるばいせっぷす 】 第4回原稿 西洋哲学 (3)アリストテレスの政治論

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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  • 木村 ゆう
  • 社会/文化
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今回は、前回、紹介したアリストテレスが、政治に関してどのように考えていたのから、簡単に説明していこうと思います。
その前に、一応、言っておこうと思うのですけども、今回に限らず、この音声ブログで言っていることは、私が理解とか解釈を元にした事を発信しているので
そもそも、私の理解が足りないことや、解釈が間違っているといった場合も結構あると思います。
ですので、疑問に思ったことや、少しでも気になったことは、自身で調べることをオススメします。

前置きはこれぐらいにして、早速、本題に入っていこうと思います
前回、アリストテレスは、様々なことをカテゴリー別に分けていったという話をしました

例えば、動物を観察によってそれぞれの種族に分類したり、漠然とした学問を、それぞれの専門分野に分けるなどですね。
アリストテレスは、これを政治の体制にも当てはめて、6つのカテゴリーに分けて考えました。

この6つの分け方ですが、先ず、政治体制を3つに分けます
一人の王が支配する、単独支配。 複数のものが支配する、少数支配。 そして、多数支配。
この支配カテゴリーを、更に、公共のための政治と 私事の為の政治という2つの目的に分けて、それぞれに名前を付けていきます。

少し余談になりますが、哲学はこれ以降、どんどん、物事を構成しているものを突き止めて、それに対して名前をつけていくという作業を行っていくことになります。
例えば今回の例でいうと、元々あった3つの支配体制を、更に2分する事によって、6つに分けて、それぞれに名前を付けます。
これと同じように、元々あった、一つのイメージや言葉を、観察や分析によって、更に、細分化していき、それぞれに名前を付けていくという作業を繰り返していくんですね。
これによって、膨大な哲学用語や科学用語が生み出されることになります。

哲学が一般に浸透しない理由としては、これらの用語は、細分化していく過程を知って、その用語の意味を知っている必要があるからなんですね。
つまり、一番最初の基礎から順番に読み解いていって、その言葉の意味や由来を知っていないと駄目ってことなんです。

SF作品を呼んだり観たりすると、ユングとかフロイトとかの思想なんかが入っていて、これで興味をもって、これらの学者の人達の本を読んでみたいなと思われる方も多いと思うんですけども
大抵の場合、理解できずに挫折してしまうことが多いと思うんですね。
その理由として一番多いのは、本の中で使われている用語の意味がわからないというものだと思います。
でも、こういう人達の書いている本は、基本的に、細分化された用語を更に細分化したり、別のアプローチから観察することで、別の名前をつけたり、細分化された用語同士が、どの様に関係しているかとか
影響を与えあっているかと言った書き方で書いてあるので、専門用語を知らない時点で、読めないんですね。

なので、もし、特定の分野について知りたいと思っているけど、本が難しすぎて理解できないという人は、興味をもっている人物よりも前の時代に生きた人や、社会を分析した本を読むほうが
理解しやすいと思います。変に、『図解』とか『誰でも分かる』なんて言葉を冠しているタイトルの入門書を読むよりも、本当の意味で理解できると思います。
解りやすく簡単に説明しようと思うと、例え重要な部分であったとしても、端折らなければならない部分ってのが出てきますし 結果として、間違った解釈を誘発してしまう可能性も出てきますからね。

という事で、本題に戻っていきますね。
アリストテレスは、国を治める人数によって3つのカテゴリーに分け、その3つをそれぞれ、公共のための政治と、私事の政治の2種類に分けて、それぞれに名前を付けました。
先ず、公共の政治で1人の人間が治める政治を、『王政・君主制』として、複数の人間が治める政治を『貴族制』多人数で治める政治を、『国制』としました。
次に、私事の政治で1人の人間が治める政治を、『僭主制(せんしゅ)』 複数の人間が治める政治を『寡頭制』 多人数で治める政治を『民主制』としたんですね。

僭主制や寡頭制というのを、言葉の意味をひとつづつ調べていくと、違う解釈がでてきたりもするんです
例えば、僭主制という言葉を調べてみると、王の血筋などとは違う人間が、実力により王の座を奪い取り、身分を超えて君主となるもの という説明が出てくるんですね。
これは、簡単に言うとクーデターの様な感じで、王の血筋と関係のない人が権力を奪い取る事を刺しているんですが

今回ここで使っている言葉とは意味合いが違うので、切り離して考えてくださいね。
で、政治というのは、公共のために行っているうちは、どのシステムでも、上手く回っていくもんなんです。

一人の王が支配していたとしても、その王が、公共のためになることを第一に考えて行動していれば、その国は上手く行きます。
貴族制も、その土地土地を支配する領主が、領民のことを考えながら土地を治めるのであれば、それはそれで良い政治といえますよね。
多人数で治める国政も、その国に住む住民全てが、国がどのようになれば皆が幸せになるのかを真剣に考えるような人達であれば、国はより良い方向へと向かっていきます。

しかし、これらの3つの政治体制は、いずれも腐敗する可能性が出てきます。
例えば王政の場合は、代を重ねていくと、確率からいっても、いずれ、自分のことしか考えない馬鹿が王になる可能性が出てきます
そうなると、王は自分の私腹を肥やして贅沢をする事に夢中になるので、国民は置き去りにされて、苦しい状態に追いやられます。

貴族制の場合は、治めている人間が多人数になる為、王政に比べると、ブレーキを掛けてくれる人間の存在によって、システム的には安定しているともいえますが、
それでも、腐敗する可能性はあって、腐敗した場合は、貴族が領民から搾取することで貴族が私腹を肥やすようになって、この貴族同士が権力や領地を巡って争うようになる為
結果として戦国時代に突入してしまいます。
このあたりの流れは、日本でもヨーロッパでも同じですよね。

そして多数が国を納める場合ですが、これは、そもそも国民が公共のことを考えて行動を取るという可能性自体が低いですよね
私達が住んでいる今の日本を見てみればよくわかりますけども、政治について語っただけで、右とか左なんてレッテルを貼られて煙たがられますよね。

例えば酒の席で、流れで政治の話になった時なった場合、『そんなに政治に興味が有るんなら、立候補したら?』て言われて話を打ち切られたり
中には、『政治とか外交問題なんて、あんたに関係のないでしょ?関係のないことに、何を一生懸命になってるの?
そんなことに時間を使うなんて非生産的な事をするぐらいなら、もっと建設的なことを考えたら?』みたいな事を言う、意識高い系 みたいな人もいて、なんなら、そっちの方が大人な空気になってきています。

こんな状態で選挙をした場合、政治家は、政治のことを全く考えない人間を相手に選挙戦を戦うわけですから、公共の利益を追求することがないですよね。
だって、公共の利益を第一に考えて作られたプランを説明したところで、政治のことを普段から深く考えていない人間は、そのプランを理解することが出来ないわけですから、票につながりませんよね。

政治家は、どんなに立派なことを言ってたとしても、当選しなければただの人であるわけですから、受かるためには、政治の事を考えたことがないような人を、上手く誤魔化すための方法を考えますよね。
その結果として起こす行動が、ニコニコ動画なんかに出演して、ネット層に迎合していくっていう、政治に関係ない、人気取りに終止するわけですよ。

また、国民が無知であることは、政治家にとっては非常に便利な状態なんですね。
というのも、ミスをしても無知な国民は、それをミスとは気が付かないわけですから。
中には気がつく人もいるわけですが、これに対しても、まともに反論する必要はないわけです。
というのも、政治家は多数の票を獲得すれば、自分達の職は確保できるわけですから、反論に対して、きっちり答えるなんてことをしなくても、反論してくる人間を、頭がおかしい人に仕立て上げてしまえばよいわけです。

最近の身近な例を出すと、加計学園問題ってありますよね。
最近、数十年ぶりに獣医学部が作られることになったんですが、その学校関係者と安倍総理が親友で、口利きした可能性があるって問題ですね。
この問題に対して、首相に対して便宜をはかる様な証拠の文章が有ると主張している人が出てきたんですけども、その人が、普段から出会い系BARに通っていたという事実が出てきて、
だから、この人の言ってることは信用できないし、証拠に意味なんかないって話になってきてるんですけども、証拠の文章や、その様な事実が有ることと、出会い系BAR通いは、全く関係のないことですよね。
ここで重要なのは、証拠としての文章が本当にあるのか、無い場合、組織ぐるみで隠蔽するために、廃棄された可能性はないのかと言ったことで、発言者のシュミは関係ないんですよ。

でも、ワイドショーなんかは、出会い系BARの話が出てきてからは、、BARのシステムを解説するためにものすごい時間を書けてますし、そういうところに通っていたという事を強調していいますよね。
下世話な話をするほうが、数字がとれますからね。 
この様な流れは、冷静になって考えると、おかしいということが分かるんですよ。シュミの問題と、証拠となる文書が有るか無いかは別次元の問題ですからね。
でも、国民が無知であったり、関心がない状態だと、その流れに流されてしまうんですね。といのも、大半の人間が、自分で考える事をしないですから。

ここで間違えてほしくないのは、『だから、政権批判をしろ』と言ってるわけではないんです。
政治家が決めることを全て批判するというのは、何も考えてないのと同じですからね。
一つ一つ吟味していくってことですからね。その結果として、政治が行うことに対して賛同できれば、その件に関しては賛同し、反対であれば、その件に関して反対をすればよいだけなんです。

でも、何度もいうようですが、実際の社会は、この様になってないですよね。
政治家は、自分の主張を通すために、正々堂々と議論するのではなく、相手の揚げ足を取ったり、スキャンダルを流して信用を落とすことで、自分が正しい事を証明しようとしますし
国に対する監視の役目を負っているメディアは、小難しい話は避けて、下世話な話に持っていきますよね。
STAP細胞の小保方さんの時も、そうでしたよね。科学のことをメディアは説明も出来ないし、説明したとしても視聴者は理解できないから、小保方さんを後押しした男性の教授と肉体関係があったのかどうかに話題が移って
最終的には、男性教授が自殺することで、後味の悪い終わり方をしてましたよね。

そして国民は、こんな状態を受け入れていて、政治に関しては無関心を貫き通してますよね。
こんな状態で、国が正しい方向に進んでいくほうが、私は奇跡だと思います。

ちょっと話がそれましたが、この様な感じで、アリストテレスは、全ての制度は最終的に腐敗して、システムが限界まで来たところで、革命によって、制度そのものが新しくなると考えたんですね。
でも、これだと答えになってないですよね。
『人は過ちを繰り返す』なんて、ゲームのFallout4のエンディングみたいなセリフを言われても、目指すべき方向なんてわからないじゃないですか。

そこで、アリストテレスが考えたのが、中庸っていう考え方ですね。
王政や僭主制というのは、治めている人間が1人なんで、腐敗も起こりやすいから論外としておいて、寡頭制と民主制の中庸を目指すべきと考えるんです。
この中庸という言葉は、寡頭制と民主制の中間ぐらいがいいんじゃないかって考えとは違います。
両極端を知ることで、新たに生まれる価値観という意味です。

例えば、恐ろしい出来事に向かっていかなければならない状態を想像してください。
その状態で、相手の恐ろしさを全く理解していない状態で立ち向かっていく行為は、蛮勇です。ことの重大さを理解できていないから個を、気軽の起こせる迂闊な行動
逆に、相手の恐ろしさを十分に理解して、手も足も出せない事を把握した状態で、向かって行かないことは、臆病です。

中庸を中間とする場合は、この、2つの行動の中間。つまり、中途半端に相手を知った状態で向かっていくことになるんですが、そういう事ではないんです。
蛮勇と臆病という両極端な価値観を知った上で、覚悟を決めて勇気をだして前に進む価値観が、中庸です。

つまり、寡頭制が腐敗して限界になった状態と、民主制によって崩壊する国家の両方を知った上で、生み出される新たな価値観が重要としたんですね。
具体的には、寡頭制で、領主が私腹を肥やすために領民に対する締め付けを増やすなどして、領民の大半を貧困に追い込んだ場合、この貧困層は革命予備軍となり、いつか実行する。
領主が倒されたことによって、政治が国民のものになったとしても、貧困層には政治を運営する理性がないので、結果として国家は崩壊する。
その事を知った上で、締め付けを抑制することによって、革命を起こさないようにするってことでしょうかね
ここで重要なのは、アリストテレスは、政治は支配者層が行うべきだと考えていた点ですね。

何故、アリストテレスが支配者層に政治を任せるべだと考えたのかというと、人間そのものもカテゴリー分けをしていたからなんですね。
この件についてなんですが、時間も結構 良い感じになってきたので、今回はこのあたりにして、続きはまた次回にしようと思います。