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【本の紹介】 史上最強の哲学入門 (後編)

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この投稿は前回の投稿の続きです。
まだ読まれていない方は、まずは、そちらからお読みください。
kimniy8.hatenablog.com

      

この本の理解をより進める為に、に第一ラウンドの真理の『真理』を簡単に見てみましょう。

最初の出だしは、プロタゴラスから始まります。
彼は相対主義を掲げ、絶対的な真理はこの世には無く人それぞれの見かたが有るだけだと説きます。
それに対し、カウンターを放つのがソクラテスです。
相対主義とは、人それぞれの考え方を尊重する、一見すると大人な意見なのですが、見方を変えれば思考停止ともとれます。
何故なら、他人が自分とは違った意見を主張しても、『それは貴方の意見でしょ。私には私の考えがある』と開き直れるし、逆に、他人の意見が自分と違う場合『私は、そんな考えはしない』と簡単に反論ができる。
根底に『絶対的な真理はなく、存在するのは人それぞれの考え方が有るだけ』という世界では、意見の違いから討論したとしても、その労力が無駄となり、最終的には『貴方の考え方と、私の考え方は違う』という結末に落ち着いてしまう。
考え方は人それぞれで、善も悪もそれぞれの考え方次第という世界では、どんな議論もプロレス化してしまい、目立つことを言った者勝ちになってしまう。それが政治の世界にも蔓延し、政治の世界はパフォーマンス合戦になってしまった。
現代と通ずる部分がありますよね。

そんな世界に対してソクラテスが起こした行動は、パフォーマンスを行っている政治家に対して、質問を投げ続けることでした。
質問をされた政治家は、最初は『そんな簡単なこともわからないのか?』と上から目線で説明をしてくれるのですが、その説明に対して『何で?何で?』と質問をし続けると、最終的には答えられない壁にぶち当たってしまう。
政治家は、自分では知っているつもりで持論を展開していたのにも関わらず、根本的なことを何も分かっていなかったことに気がついてしまう。
これが有名な『無知の知』ですね。
ソクラテスは、好奇心の原動力は自分が無知であることを自覚するところから始まると考え、無知の知を広める為に行動をし続けたのですが、赤っ恥をかかされた政治家に仕返しされる形で処刑されてしまいます。

しかし、ソクラテスの主張によって目を覚ました若者たちは、その後、真理を追い求めて知識を探求することになっていきます。
その中の一人に、プラトニックラブで有名なプラトンなんかも居るのですが、プラトンの主張は、ソクラテスの主張やそれが浸透した世界とバッティングしない為、この章では登場しません。

代わりに登場するのが、デカルト
ソクラテスの主張で目を覚ました若者は、一生懸命『真理』について考えるのですが、そんなものは簡単には手に入りません。
ノーヒントの真理の探求は、地図を持たない砂漠のど真ん中で、針を探すような作業。
では、何らかの前提条件を考える事で、探しやすくしようとしたのがデカルトです。
前提条件とは、数学でいう定理のようなもので、『平行線は交わらない』『三角形の和は180度』といった感じのもの。
この様な前提条件を付けることで、探しやすくしようとしたわけです。では、その前提条件とは何かというと『我思う故に我あり』です。

定理とは、絶対に正しい事である必要があり、絶対に正しい事を探そうと思うと、一度すべてのものを疑う必要が有る。
こうして疑い続けると、最後に残ったのは、全てのものに対して疑っている自分だけになってしまったという考えですね。
『考えている自分しか残らないの?』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、現状でも『世界5分前仮説』が否定できない状態なので、仕方のないことなのでしょう。
このデカルトですが、『考えている自分は、確かに存在している』という定理から、何故か、『私が確定しているのだから、私が明晰に理解・認識しているものは確実に存在する』『何故、私の責任が正しいのかというと、それは神様が私を作ったから。』という論理の飛躍をします。

これに反論したのが、懐疑論者のヒューム。
デカルトが、最初にに定理をおいてから、それを拡張する方向で考えをしようと考えたのに対し、ヒュームは『我思う故に我あり』という定理を更に掘り下げて、『我って何?』と疑い続けます。
そしてヒュームは、『我・自分というのは、観る・触れる・聴くといった近くの集合体というだけだよね』と、『我』の範囲を極限まで狭めてしまいます。
その懐疑はとどまることを知らず、科学や神といった禁断の領域にまで達してしまいます。
今ある科学は、皆が経験した事を、一つの法則にして理論立てているわけですが、誰かが落としたリンゴが地面に落ちないだけで、今までに構築された理論の多くは破綻してしまいます。

徹底的に世界を疑い続けたヒュームですが、疑うだけでは何も生まれません。
それに対して抗ったのが、純粋理性批判でお馴染みのカント。

カントは、『人は経験によって物事を感知しているだけだが、人が経験によってインプットするのは、時間的・空間的といった共通の形式に則って行っている。』とし、経験に共通の受け取り方があるのであれば、理論を構築するのも可能としたようです。
『共通の受け取り方が有るから共通の認識が生まれるので、それによって法則が生まれても良いよね。』ということらしい。
しかし、これはあくまで人間に限定したこと。種が人間から別の生物に変化すると、経験の受け取り方も変化する可能性がある為、心理があるとしても、別の生物と人間とで同じ心理に到達するとは限らない。
これが、かなり凄いコペルニクス的転回のようです。
というのも、真理とはこの世を貫く唯一の法則と考えられてきたわけですが、この考えによると、真理とは受け取る種族ごとに存在することになります。
そして人間に到達できるのは『人間の心理』だけであって、他の生物の真理には到達することは出来ないという限定された『真理』に変化しました。

ヒュームの理論では全てのものが疑わしいため、真理の存在も疑わしかったわけですが、カントの登場により、変化はしましたが『人間にとっての真理』は有ることになりました。
しかし、在るとされた『人間にとっての真理』は、どのように見つければよいのか。その方法がわからない。またフリダシに戻ってしまいました。
そこに現れたのがヘーゲル
彼は『弁証法』を武器に、人間にとっての真理を見つけ出そうとします。
弁証法とは、簡単にいえば、数ある思想・理論を議論を通じて戦わせることで、進化させようという手法。
主張Aに対して反論Bをぶつけることで、Aの理論の矛盾点や不明な点が浮き彫りになるので、この部分を更に改良したり、別の視点を加えるなどして発展させていこうという考えです。
この様な討論を長期間繰り返し続けることで、いずれは真理に到達するのではないかという考え方です。

中々ごもっともな意見なのですが、この弁証法という方法論そのものに反論をぶつけてくる哲学者が存在しました。
それが、実存主義キルケゴール
彼は、弁証法のやり方では、真理が見つかるのは相当、先になってしまう。未来の人類に真理を託し、心理を知らないままで自分が死んでしまうのなんて嫌だとし、『自分にとって真理と思えるような真理。その為になら命を賭けられるような真理。そんな真理を見つけることが重要。』と言い出します。
まぁ、気持ちは分からなくもないですよね。
人類という種が、いずれは真理の到達するかもしれないって言われても、自分の人生は自分が死んでしまったら終わりですし、自分の人生の主人公は自分なので、自分で真理を感じたいと思うのは当然でしょう。

この意見を受けて、哲学者サルトルは、『じゃぁ、人類の歴史に積極的に参加して、その動きを加速させればいいじゃないか。その為に人生を賭けてみよう。』と主張。

しかし、この主張を受けて、構造主義の祖 レヴィ=ストロースは、『歴史って加速させた後に、どこかに到達するようなものなの?』『歴史って、一方方向に進むようなもの?』と異論を唱えます。
というのもこの人物は、本職が人類学者で、世界各国の民族や国のシステムや考え方について研究していた人物。
弁証法によって考え方が改良されていけば、いずれは素晴らしい世の中になるというのは西洋的な考え方で、住む地域や環境が違えば、その考えも変わってくるというのを知っていた。
例えば、アジアでは時代は巡っていくものとされ、長いスパンで観ると人間は同じ間違いを起こすので、似たような現象が繰り返され続ける。
歴史が何処かに到達する一本道なら良いが、同じところをぐるぐる回っている円であるなら、スピードを速めたところで、サイクルが早くなるだけでどこにも到達しないことになります。

この後、更に3人ぐらいが登場し、真理の形なども変わってくるのですが、それを書くと結構長くなってきたので、このあたりで振り返りは終わろうと思うのですが、この様な感じで、主張に対して反論をぶつけるという弁証法のような感じで進んでいきます。
これが4ラウンド続き、最後に総括で終了します。

哲学書は非常に読みにくく、ハードルが高い分野なのですが、それを誰にでも伝わる言葉で短くまとめてくれている点が、非常に良いとお見ます。
ただ、物凄く長い主張を短いページ数でまとめている為、『ん?』と思うような部分もあったりします。
ですが、これは入門書。
表層的な部分を知って興味を持たせることが役割。
これを読んで興味をもった人が、ここに登場した人物が書いた本などにチャレンジしてみるようと思わせることが出来れば仕事は終わりなので、祖いう観点から観ると、非常に優秀な本だと思います。

サッと読める本なので、興味をもった人は是非、購入してみてください。