だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

いじめ問題について思うこと

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最近ワイドショーで、いじめ問題が頻繁に取り扱われています。
幼い命が失われるという事になってしまったからですが、マスコミの報道姿勢を見ていると、世の中からいじめが無くならない原因が分かるような気もします。

今現在(2015年7月半ば)の詳しい話は、ワイドショー等を観て貰えればわかると思いますが、物凄く簡単に説明すると、こんな感じです。
一人の少年が、担任と文章のやりとりで、いじめで苦しんでいると訴えかける。
しかし担任は親身にならずに、上から目線で適当な答えを返した結果、少年が自殺をしてしまった。

私は当事者でも有りませんし、報道されている内容しかこの問題については分かりません。
しかし、普通の常識で考えれば、文章のやりとりで深刻な内容の相談を持ちかけられたら、文章で返すだけの対応を取るでしょうか。
遠く離れて会えない人間ならまだしも、生徒と担任という、毎日の様に顔を合わす人間が文章で深刻な相談を持ちかけてきたら、普通は話すと思います。

面談という正式な形は取らずとも、言葉で『大丈夫か?』と言って話す事は当然行っているでしょう。
つまり、文章のやりとりというのはコミュニケーションの1つの手段であって、同時並行的に他のコミュニケーションを取っていたと考えるのが普通です。
しかしマスコミの論調は、『子供が悲痛な訴えをしているのに、見当違いの答えを出す、上から目線の無責任教師』
『ここまで分かりやすいメッセージを残していて、何故気が付かなかったのか、鈍感過ぎる』といったもの。

特に教育評論家で、最近テレビに出まくっている尾木ママという方は、この教師が如何に子供の事を分かっていない、上から目線のダメ教師かという事を力説。
相手のことを知ろうともせず、一方的で断片的な情報で担任教師を中傷されておりました。


勘の良い方はお分かりかもしれませんが、これは、マスコミによる担任教師へのいじめですよね。
少年が書いたノートには、『先生からは希望をもらった』といった趣旨のことも書かれています。
しかしこの部分は殆ど取り上げられておらず、終始、文字だけのやり取りで行われた、揚げ足を取れる部分だけを取り上げるという偏向報道
現時点で担任教師は、体調を崩しておられる様ですが、それでも追い込むマスコミの姿勢は、いじめそのものの様に思えます。

いじめによって尊い命が失われたのだから、担任教師を精神的に追い込んでも良いという免罪符でも貰ったつもりなのでしょうか。
この行動を客観的に観ると、大人社会の、中立な報道を義務付けられているメディアが率先していじめを行っているのだから、精神的に未完成の学校という場所でいじめが起こるのも無理は無いのでしょう。


これはいじめに限らないのですが、既に起こった事件の前兆を探しだして、後から『この事態は予測できた』という事は簡単です。
しかし難しいのは、事が起こる前に前兆を読み取ることです。
世に出ている『統計学』や『予測』に関する本を読めば分かりますが、大抵のことは、後から振り返ると簡単に予測できるのですが、起こる前に予測することは不可能なんです。
この少年の例で考えてみれば、文字のやりとりではいじめを示唆する内容が多く観られます。
担任教師は実際に少年と直接話せる立場にいたわけで、声をかけていた可能性も高い。
実際に公表されていた文字のやりとりでも、『先生からは希望をたくさんもらった』という感謝の言葉も書かれていました。

ここからは憶測ですが、もしその時に少年が、『氏ぬと書いたのは、冗談半分で書いたもの』と笑顔で言っていたとしたらどうでしょう。
担任教師からしてみれば、その少年の言葉を信じる事が、生徒との信頼関係を築く事だと思ったのかもしれない。
結果としてその判断は間違っていたわけですが、この間違いは後から振り返って分かるもので、事前に分かるものではない。


これらの事情を一切知ろうともせずに、バイアスがかかった一方的な情報で担任教師をキチ○イ扱いする人達。
こんな社会構造で作られた学校には、当然の様にいじめ問題が存在するんだなと、妙に納得してしまう。
そしてこの様な悲しい事件は、こんな社会では繰り返し起こってしまうんだろうと思ってしまう。


というのも、世間一般の一番の問題は、いじめについての認識の間違いが有るからです。
何度も名前を挙げますが、尾木ママさんが出演していたテレビの主張から受けた印象は、『いじめ問題は、教師がしっかり対応すれば防げる』という認識をお持ちだということ。
その為か、担任教師が問題を学校全体にシェアしていなかった…云々といった事をかなり問題視され、担任一人で見つけられない問題も、教師全体でシェアすれば解決できた可能性を示唆されていました。
しかし冷静に考えて、担任教師が受け持つ1クラス30人の様々な問題を考えるだけでも精一杯の状態でしょう。
それを全体でシェアするということは、学校の全校生徒が何人いるか分かりませんが、300人だと仮定しても10倍の量。
一人当たりにかけられる時間は激減する為、問題に気づくどころか見逃すケースが多くなるでしょう。
認識そのものが既に間違ってます。

先程も書きましたが、人間関係によって起こる問題は、事が起こってから振り返って逆算すれば、簡単に原因は突き止められます。
しかし、事が起こる前に予測する事は不可能です。
何処の世界に、『生徒が自殺すれば良い』なんて考える教師がいるでしょうか。

ではどの様に認識を改めるべきなのか。
それは、『どんなに立派な教師が目を光らせていたとしても、いじめ等の問題は起こる。そして、教師には問題を解決出来ない。』という認識に変えるべきです。
そのうえで、学校に何を求めるのかを真剣に考えるべきです。
単純に基礎教養を身につける事に限定するのであれば、クラス制度そのものが必要無いかもしれません。
子供にも様々な性格の子ともがいて、コミュニケーションが上手い子もいれば苦手な子もいる。
苦手な子に無理やりコミュニケーションを取らせても、いじめられるかもしれない。
その場合、基礎教養を身につけることのみが学校の役割であるなら、個人指導という道もあるかも知れない。

学校が基礎教養を身につけるだけの場所ではなく、協調性や集団活動等も教えるべきというのであれば、問題が起こった時にどの様に対処をするのか。
これを、『担任教師が頑張る』といった抽象的な事ではなく、しっかりとマニュアル化すべきです。

いじめは起こるし、教師に解決能力は無いという厳し目の前提を置いた上でシステムを作らなければ、根本的な解決は不可能だと思います。