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だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

コンテンツの楽しみ方は消費者次第

考え方

少し前の話になるのですが、落語家の男性と女性漫才師の方のフリートーク番組で、初音ミクの話題がでました。
その時の話題は、初音ミクが行ったコンサートについて。
実態がないプログラムの初音ミクの歌を流し、プロジェクターに映像を写すコンサートが異常だと訴え
『日本は大丈夫か?』という結論で締めくくっていました。

この話を聴いて私は、『芸能人らしい感想だな』と思ってしまいました。
同じ芸能人であれば、一緒に仕事をする事もあるでしょうし、知り合いになって一緒に呑みに行くというのも非現実的ではない。
他の芸能人も、自分と同じ人間だという意識がある。

しかし、一般人にとって、芸能人が実際に存在しているという事実は、さほど関係がない。
何故なら、そもそも一般人と有名人に接点が無いからです。

例えば、毎日の様にテレビに出演していた芸能人Aさんがいるとします。
その人は、日々流される映像をその都度撮るのではなく、かなりまとめ撮りをしていて、数年分のストックがあったとする。
その状態でAさんが急死してしまったが、亡くなられた事を一切報道せずに、ストックとして貯めておいた映像を普段通り流したとします。

おそらく、大半の人間はその芸能人が死んだことに気が付かず、生きているものとして数年間過ごすことになります。
この状態をメタ的な視点でみると、既にこの世に存在しない人間が作り出した映像を見て、感情を揺れ動かすわけです。

芸能人の存在をテレビの中でしか知ることが出来ないのであれば、一般人から見れば、初音ミクも芸能人も同じということになる。

他の例でいえば、スポーツ観戦などもそうです。
最近のスポーツ観戦は、有名な試合などになると、生放送を映画館などで映しだして、そこで皆で応援するというイベントが行われています。
『実際に試合は行われているんだから、初音ミクとはぜんぜん違う!』という反論もあると思います。
しかし、各映画館での声援は試合場に届くことは有りません。
そのスポーツに全く興味が無い人達から見れば、スクリーンに向かって届かない声援をしているだけにしか見えない。

それでも納得出来ない人は、踊る方のクラブを想像してみてください。
あの空間にあるのは、DJと呼ばれる人が選んだ音楽をシームレスにつないで、大音量で流しているだけの空間です。
その音楽に身を委ね、時には声援を送って楽しんでいます。
既に録音された音楽で楽しんでいるという状態は同じですが、この文化も認められないということなのでしょうか。

映画なども同じです。
ディズニーのアニメ作品は、コンピューター・グラフィックスで作られた映像です。
その映像にストーリーを付けたものですが、人の心を動かす作品が多いです。
感受性の高い人だと、映像を観ている最中に声が出てしまう人もいるでしょう。
映画を見終わった後、そこに登場したキャラクターに本気で腹を立てる人もいるでしょう。
この状態と何が違うのでしょうか。

ここ最近のコンピューター・グラフィックスはかなり進歩してきています。
今から数十年先には、現実の人と見分けがつかない程の画像になる事も十分予測できます。


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そのキャラクターに人工知能を積んで、ネット上にある様々な情報を組み合わせて、刺激的なコンテンツに仕上げて提供してくれるような物が出来たとしましょう。
そうして生まれたキャラクターと芸能人との差は、一般人には存在しません。


全てのことに共通しているのは、コンテンツに関わった人物が目の前に居るとか、その実在がが重要ではないということです。
ほんとうに重要なのは、そのコンテンツが既に提供されていて、そのコンテンツを皆で共有しているという事実です。

映画館で観るスポーツ観戦も、クラブで流れる音楽に身を委ねるのも、盛り上がる要素の大半はその場にいる人達との一体感です。
皆で一つのコンテンツを共有していれば、そのコンテンツに実在する人間の有無は関係ありません。
一体感という重要な要素がなくなった途端、人々はその熱から冷め、冷静になってしまいます。

つまり、コンテンツの面白さの半分は、観ている側が作っているということです。

最初に話題に出したベテラン落語家が『日本は大丈夫か?』と思ったのは、面白いコンテンツは演者だけで作っているという思い込みから発せられた言葉なのでしょう。
実際にはコンテンツの半分は観客が作っているので、観客が『盛り上がろう!』と決めれば、観客自体で盛り上がることも可能なんですけどね。

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