だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

感情や意識は存在するのか

広告

人には感情や意識はあるのでしょうか。
感情や意識、人格は、人が生まれながらにして持っていると思い込んでいる。
自分自身の自我があって、時に笑い、時に無く。

当たり前の様に存在すると思い込んでいるから、何も疑わない。
でも疑ってみると、結構あやふやな事に気づいてしまいます。

例えば精神状態や性格は、外的要因で簡単に変わってしまう。
ストレスがかかればネガティブになりがちですし、良い事があったらポジティブになる。
この程度であれば、性格や人格という事で片付けられなくも有りません。

しかしもっと簡単に、正確や考えは変化します。
例えば酒や薬物等がそうですね。

無口でおとなしい人でも、少量の酒で饒舌になる。
極端な人だと、暴力的や高圧的な正確に簡単単に変化します。

薬も、別に非合法なものでは無く、医者に処方されるものでも変化します。
精神科で処方される精神安定剤抗鬱剤などがそうですね。
また、薬に対する耐性が低い人だと、カフェインの様なありふれた物でもハイになってしまったりする。

感情とは思っている以上にあやふやで、簡単に操作が可能なものだったりする。


次に、人が取る行動などについて考えてみる。
人はいろんな選択肢の中から、取るべき行動を選んでとっている。
その行動の連続が人生といっても良いと思う。
それらの行動を他人が見て感じ取ったものが、その人の性格になる。

では人は、何を基準に自身が取る行動を決めているのか。
行動の基本となるのは、感情が大きい。
人は選択肢を選ぶように迫られた時、取れる選択肢の中で一番心地の良い選択肢を選ぶ。
知識的には他の選択肢を選んだ方が良いとわかっている場合でも、心地よい方を選んでしまうのが人間。

知識や経験を蓄え
人生ゲームを有利に進めようと頑張っていても、感情に振り回されて、思った通りの行動が取れないのが、人間だったりする。

人間らしいといえば人間らしいとも思えるのだが、これを最初の事実と合わせると、奇妙な現実があらわになってしまう。

最初の疑問とは、感情は外的要因によって、簡単に変わってしまうというという事実です。
人は、アルコールや精神安定剤等の薬物によって、簡単に感情が変わってしまう。
そして、科学的に簡単に変わってっしまう感情に、行動が振り回される。
こう考えると、感情や行動が、結構簡単な事で操作可能なものということが分かってしまう。


では意識はどうなのか。
最近の研究をみると、人の意識は行動の後付で生まれるという実験結果が出ている。

どのような実験かというと、目の前にボタンが有り、被験者には『好きなタイミングでボタンを押してください』と言っておく。
被験者には、事前に脳波や電気信号を計測する機器が付けてあり、『押そう!』と考えると、その反応が外部に伝わるような状態になっている。
この状態で被験者が任意のタイミングでボタンを押すとどうなるのか。

普通に考えれば、頭のなかで『押そう!』と思い、遅れたタイミングで体が動き出してボタンを押すという結果になると予想するだろう。
しかし実際には、意識的に考えるよりも7秒も前に、ボタンを押すという命令が出て動作を行っていて、後で『押した』という認識が来るという結果になってしまった。

この結果から分かることは、人の意識は、自分が起こした行動を後から説明を付けて認識しているだけ。
頭で考えて行動を起こしているというわけではないという事です。
結構衝撃的な結果ですよね。

そういえば、日本には昔から諺として、この様な言葉があります。
『笑う門には福来たる』
この言葉も、笑っている人間には回りまわって良い出来事が起こるという意味ではないのかもしれません。
【笑う】という行動を起こしたことによって、脳が『笑っているんだから楽しいことがある』という意識を生み出し、脳内麻薬を普段より多めに出す為、周りで起こっていることがポジティブに捉えられる。

よくよく考えれば、人間がとっさの判断をする時に考えているのかといえば、かなり疑問だ。
例えばスポーツ。
人間が相手の行動を見て、自分がどう行動するのかを考えてから行動していたら、とても間に合わないようなケースが多々ある。

私は昔、フルコン空手を4年ほどやっていた経験がありますが、3分間の試合の中で、考えて動く場面なんて殆どありません。
大抵は身体が勝手に動いているようなイメージで、試合後に自分の映っている映像をみると、自分で想像していたのと随分印象の違う試合展開になっていたりする。
というか、大半の部分は覚えてすらいなかったりします。

他のスポーツでも、『体で覚える』という言い回しがある様に、頭で考えて行動していても間に合わないケースというのは多い。
大人数で行う展開の早いスポーツの場合、現状認識すら出来ない場合もある。
それでもなんとか形になるのは、人の意識が介在していないからなのかもしれない。

そう考えると、感情や意識は何なのか。
疑問に思ってしまうのは、私だけでしょうか。