だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【本の紹介】 図解 恋愛心理学

今回は久しぶりに、読んだ本の紹介と感想です。
今回取り上げる本は、『図解 恋愛心理学』です。


      

この本ですが、読み終わって一番最初の感想は、『夢も希望もない…』みたいな印象を受けてしまいました。
まぁ、私が感じた主観なので、読む人によって印象が変わるのは当然だと思うので、この印象は話半分ぐらいに聴いてみてください。

いきなり、Disった感じで始まってしまいましたが、別にこの本に書かれている事が悪いことが書かれているわけではありません。
単純に、統計などから分かった事実が書かれているのですが、事実が淡々と書かれている為に、恋愛に対して一方的に抱いていた印象が崩れ去ったと言いましょうか…
個人的には、もっと神秘的な(?)ロマンティックな(?)感じで、理論で言い表せないような要素が絡み合っていると思いこんでいたのですが、その考えが否定された感じでしたね。

では何故、私がこのように感じたのでしょうか。
簡単に説明すると、男女が互いに求めているのが、現実的なものばかりだからです。

まず女性の好みからいいますと、子供を生みたいと思う男性は、外見や肉体的な強さが優れているものということになります。
まぁ、動物としては当然の選択といえますよね。
自分の子供が、より有利になるように環境を整えようと思えば、この様な選択肢になるのは仕方のないことなのでしょう。

ですが、これは『子供を生みたい』と思う対象であって、結婚したい対象ではありません。
では、結婚したい対象はどんな人物になるのかというと、簡単にいえば、経済力の有る人間や社会的地位の高い人間ということになります。

つまり極論をいえば、結婚相手に求めるのは、安定的な生活を行うのに必要な地位と金を持つ人間で、子を生みたいと思う対象は、外見や能力が優れている人間ということになります。
これを素直に実行すると、金持ちで地位の高い人間と結婚して安定的な生活を作った上で、外見や能力的に優れた人間と浮気をして子供を作るのがベストということになります。
ネット掲示板などでは、旦那=ATM(自動現金引出し機)なんて言われ方をしていますが、心理学的にもこれは正しいといえるわけですよ。

では、男の方はどうなのかというと、男性の場合はもっと単純で、外見のみに注目をしています。
この、男性の女性に対する外見の重要度は物凄いもので、男性の中でも冴えない男と思われている男性でも、その彼女が凄く美人だと、仲間内からの見方が一変する程だったりします。
つまり、男性本人よりも、連れている彼女の美しさによって社会的な信用度が増すという事なんですよ。

男の本質的価値って、一体何なんでしょうね…

こんな感じで、元も子もないことを知らせてくれるわけですが、この様な論調で書かれている為、『モテる方法』なんかも現実的に書かれていたりします。
多くの人が一番気になる『モテる方法』なのですが、これは先程からも書いている通り、単純に外見や能力を磨き続けることしかありません。

女性などは、こんな本を読まずとも、この事を本能的にわかっている為か、男性よりも外見にかけるお金が段違いに多いですよね。
男性から見れば、何故、化粧品や服装にそこまで金をかけるのかが不思議ですが、要は、外見に金をかける事は自己投資となりますし、それで社会的地位の高い男を釣れれば問題はないということなんでしょう。
男性が、本当の意味で女性の内面に焦点を当てて、人を見極めるという事をしているのであれば、彼女たちの考えも変わるのかもしれません。
しかし、実際には男性は女性の外見しか観ていない為、そこだけ磨き上げるというのは、正解ということなんでしょう。

ちなみに、外見を磨くための投資ですが、モテるためには当然、自己満足や流行に走らず『男ウケ』のみを狙う必要があります。
『男ウケ』に極振りする外見は、女子同士の間では嫌われるようですが、これも心理的には当然と言えるでしょう。
というのも、男から受けの良い女性というのは、生物的にライバルですし、ターゲットの男を奪われる可能性が高くなります。
そういうライバルは少なければ少ない程よいので、蹴落とすためにも嫌味を言って軌道修正させるのは、正解ということになります。

逆に、男ウケを狙わずに、自分の趣味に走った独特な路線を貫くと、女性からは人気が出ることになります。
これも心理的には当然で、そんな独特な趣味全開の女性を好きになる男性は少ないので、その路線を守って独走してもらったほうが、ライバルが減って良いからということになります。

男性も基本的に同じで、先ずは外見を良くすることが必要になります。
女性ウケの良い服装をして、腹が出ているのであればダイエットをして見栄えの良いプロポーションになる。
その上で、能力を高める事が必要になってきます。

その上で、出会いのきっかけとなる積極的なアプローチが必要になるということです。

ここで、『相手を思いやる気遣いなどは、必要がないの?』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。
確かに、女性が求める条件の一つに『やさしさ』が入っているので、そう思う人がいても不思議ではありません。

ですが心理学的には、積極的な気遣いはむしろマイナスに働いてしまうようです。
それは、人間は何かをしてもらった際には、嬉しさも感じる一方で、その行為に対する負担も感じてしまう生き物だからだそうです。
そして逆に、人に尽くした際には、自分の行動に対する言い訳を無意識に内に考えてしまいます。その言い訳とは、『私は、この人の事が好きだから、尽くすんだ。』というもの。
自分のことしか考えないDV男がモテる理由が、これで少しはわかりますよね。『暴力を振るわれても尽くす私は、この人の事が好きなんだ』と言い聞かせることで、耐えているからなんです。

これは結局のところ、モテる為には人に尽くしてもらえる程度にモテている必要があるということになってしまうんですよね。
では、その為には何が必要なのかというと、男性の場合は自分自身が社会的にみて貴重な価値がある存在にならなければ習いということなんですね。
つまり、能力を高めるしか方法はないということ…

とまぁ、この本は、夢も希望も与えてくれないわけですが、現実的な道筋は示してくれたりもする本だったりします。
また、私が今回書いた内容は、後半部分の内容だけなのですが、前半部分には恋愛初期に役立つテクニックも簡潔に書かれていたりもします。
Kindle版だと若干安いので、興味が有る方は、読んでみてはいかがでしょうか。

【映画紹介・感想】 ボーリング フォー コロンバイン

先日、マイケル・ムーア監督のキャピタリズムという作品を紹介する投稿をしました。
その投稿を読んでいただいた方から、Twitterで感想を頂いた際に、『ボーリング フォー コロンバイン』という作品名が出たので、調べてみるとNetflixで見れるということで、早速観てみました。
という事で今回は、この『ボーリング フォー コロンバイン』の紹介・感想を書いていきます。



(画像はアマゾンリンクです)

この映画はドキュメンタリー作品で、起こった事や事実を監督の目線を通して表現していく作品です。
ストーリー性というものはなく、一つのテーマを情報を集めて掘り下げて、問題意識を高めるという作品の為、この作品の感想や紹介を書くということは、そのままネタバレを書くことにつながってしまいます。
その為、ネタバレ無しの状態で作品を視聴したい方は、この投稿は読まずに、先ず作品を観ることをオススメします。


という事で、作品紹介・感想を書いていきますね。
作品の『ボーリング フォー コロンバイン』というタイトルだけを聴いて、テーマや内容が分かる方は、おそらく日本には少ないと思います。
という事で、先ずはタイトルの説明をしていきましょう。

まず、『コロンバイン』というのは、一部のアメリカ人は単語を聞いただけで理解ができてしまう程の『事件』の事です。
学生2人が、学校で銃を乱射して同じ学生と教師を殺したという凄惨な事件で、その周辺地域に住む人達にとっては忘れがたい出来事のようです。
では、ボーリングは何なのかというと、その事件を引き起こした2人の学生が、事件の前にボーリングを楽しんでいたというところから来ているようです。
(その他にも、ボーリングのピンは銃の訓練の際の的に、形的に丁度良いというところからも来ているのかも?)

このタイトル説明で理解された方も多いとは思いますが、今回紹介する作品のメインテーマは、『銃』です。
アメリカといえば『銃社会』ですし、政治関連でも全米ライフル協会の名前が頻繁に出てきますよね。

では、この作品は、銃規制の話なのかというと、それは微妙に違ったりもします。
確かにメインテーマは銃ですし、映画の内容も銃による事件や死傷者の話が大半なのですが、銃『規制』の話は、メインテーマではありません。
ではテーマは何かというと、『何故、アメリカだけ銃による死者数が高いのか?!』というものです。

ここで注意が必要なのは、何度も言いますが、メインテーマは銃規制の話ではないということ。
というのも、銃を規制していない国は沢山有るのに、銃による殺人が多いのは『アメリカだけ』だからです。
例えば、日本の様に銃の取扱が禁止されている国の場合は、銃による殺人数が低いのも納得がしやすいと思います。だって、銃を手に入れる事ができないんですから。

この日本とアメリカを単純に比べてしまうと『アメリカにも銃規制が必要』という単純な結論になってしまいます。
ですが、この問題の面白いところは、銃規制がなく、アメリカと同じように誰でも簡単に銃を買えてしまう国でも、銃による殺人は比較的少ないという事なんです。

例えば、アメリカの北に隣接しているカナダは、アメリカと同じように簡単に銃を入手することが可能で、弾も簡単に手に入ります。
しかし、カナダの銃による死者数は、年間で165人。その一方でアメリカは、11,127人。桁が2つ程違います。
とは言っても、カナダとアメリカでは人口が違います。絶対値の人数で比べるのは不公平ですからね。

という事で、カナダの人口を調べてみると3000万人。その一方でアメリカは3億人なので、アメリカは10倍の人口がいることになります。
ですが、それを考慮に入れたとしても、アメリカの銃による死者数は、カナダの10倍程度と、非常に高いことが分かります。

では、何故、この様な差が生まれてしまったのでしょうか。

映画内に登場するアメリカ人達は、様々な要因を挙げて説明しようとします。
アメリカは、侵略の歴史が有るから、暴力的な人間が多いんじゃないだろうか?』
『様々な人種がいて、考え方が違う人が多いからではないだろうか。』

色んな理由を挙げますが、少し調べてみると、それらは原因になりえないことが分かります。
最初の、アメリカは侵略の歴史があって、虐殺なども行う暴力的な人間という意見は、一見すると、自分達を客観的に観た冷静な意見のようにも思えます。
では、イギリスやドイツは侵略戦争を行わなかったのでしょうか。 日本は?

これらの国々は、いずれも侵略戦争を行い、その際に虐殺を行っています。
まぁ、戦争ですからね。自分達に危害が加わる可能性があるとなれば、民間人だろうと殺すでしょう。ナチスなどは、人種や障害者を持っているというのを口実に、積極的に虐殺を行っていましたよね。

でも、銃による死傷者はアメリカには遠く及ばない。

人種についても同じで、カナダでも多くの黒人が住んでいて、多様な人種が入り混じっています。
当然ですよね。カナダはアメリカの北側に隣接した国ですし、開拓の歴史なども基本的には同じです。にも関わらず、銃による死傷者は、アメリカの割合に比べると10分の1となっています。

この差は何なのかをマイケル・ムーア監督が考えた結果、一つの仮説が生み出されます。
それは、『恐怖』です。

恐怖を撒き散らすもの、皆が好んで見るものです。当然ですよね。自分達の生活に直結する出来事ですから、恐怖を掻き立てるものは観たいという欲求が高まります。
それは、大雨の日に川を見に行ったり、お化け屋敷や絶叫マシーンに自ら進んで乗りに行く状況を見れば分かりやすいですよね。
そして、身近にある恐怖は消費行動を促します。
例えばアメリカでは、黒人が犯罪を犯して、白人警官に捕まえられて身ぐるみ剥がされて拘束されるという番組が毎週のように報道されているようです。

この恐怖映像を観た白人たちは、自衛の為に銃を買うという消費行動に走ります。
また黒人たちは、黒人というだけで迫害されて警戒され、人として扱われない状態にストレスと貯めますし、白人至上主義者から脅迫を受けることも有るでしょうから、自衛の為に銃を買います。
結果として、アメリカの兵器工場は大儲け。 資本主義バンザイ!という状態になるわけですが、結果として、アメリカ国内を二分化させ、相互にて期待させるという状況を作ってしまいました。
この様な環境で銃による殺人事件が起こり、実際に死傷者数が増えると、『周りは敵だらけ! コワイ!』という思いから、更に銃は売れ、それによって人が殺される。

その一方でカナダはというと、アメリカに比べて恐怖を煽るニュースは少なく、国民が二分化されることも無いようです。
カナダの人達は、自身の家にカギをかける事も嫌がり、アメリカ人のマイケル・ムーア監督が『鍵をかけないで、怖くないの?』という質問に対し、『鍵をかけることは自身を家に換金することと同じだ。そんな事はしたくないし、危ない目にあったこともない。』という。
ハロウィンの日に、家に近づいたという理由で子供を撃ち殺し、無罪になったアメリカとは違い過ぎますね。
カナダに住む黒人たちも、アメリカに比べて差別も偏見もなくて住みやすいと言い、カナダの政治家たちも、敵を作って恐怖を煽るということよりも、福祉政策の方を重要視しているようでした。

よくよく考えてみると、アメリカの外交って、基本的に恐怖戦略ですよね。
今、日本で話題になっている北朝鮮ミサイル問題も、元はといえばアメリカが『悪の枢軸国』発言して、威嚇しまくったってのも原因の一つですよね。
その威嚇に対して、同じ様に核兵器を持つことで対抗しようとする北朝鮮に対し、共同訓練で更に威嚇をして挑発しつつ、『いつミサイルを打つか分かりませんよ!』と恐怖をばらまく。
これによって、アメリカ製の武器は売れるわけで、アメリカにとっては万々歳って事なんでしょうね。

ただ、その恐怖先着が、結果として自国内での殺人事件につながっているのだとしたら…
色々考えさせられますよね。

【映画紹介・感想】 キャピタリズム ~マネーは踊る~

先日のことですが、ドキュメンタリー映画で有名なマイケル・ムーア監督作品の、『キャピタリズム マネーは踊る』を観ました。


      

という事で今回は、このを紹介しつつ、感想を書いていこうと思います。
最初に書いておきますと、この作品はストーリーものではなく、ドキュメンタリー映画で、今のアメリカの状態をムーア監督の目線で切り取った作品となります。
基本的には、現実世界で起きている出来事を、そのまま映像化したような作品の為、番組の感想を書くということは、そのままネタバレを書くということに繋がります。
その為、何の知識も得ない状態で観たいという方は、この投稿を読まずに、そのまま映像を見るよう、お願い致します。
ちなみにこの作品は、今現在、Netflixで見ることが可能です。


前置きが終わったところで、早速、作品の感想を書いていこうと思います。
私がこの作品を見た際に、一番最初に思った事は、日本の現状と非常によく似ているという事。

この作品内でアメリカの資本主義は、マイケル・ムーア監督によって皮肉たっぷりに貶され続けます。
アメリカといえば、アメリカンドリームなんて言葉を聴いたりもしますが、それは既に過去の話で、今は夢も希望も抱けない。
富裕層が搾取しまくった結果、国民の大半は貧民層に追いやられ、住む場所も奪われ、地獄のような場所として描かれているのですが…
『今の日本は、そのアメリカの背中を全力で追いかけているように見える。』それが、この作品を見た私の感想です。

では何故、私はそう思ってしまったのでしょか。順を追って観ていきましょう。

この作品では、先ず、資本主義の成り立ちから説明されています。
アメリカは第二次世界大戦後、空前の好景気を迎えます。
というのも、現代でいうとライバルだったドイツと日本が第二次世界大戦によって焼け野原になった為、ライバル不在によって受注が殺到したからだそうです。
また、焼け野原となったドイツや日本は、生活基盤をもとに戻すためにも、大量の生活用品が必要になるわけですが、その製品も、アメリカから購入していました。
様々な要因が重なって供給不足に陥ったアメリカは、物を作れば売れるという状態。働けば働くほど裕福になり、大量の中産階級が誕生しました。

この当時のアメリカは、絶好調。
需要は有り余るほど有るので、仕事も豊富だし給料も働いた分得られる。この時代に貧乏だという人は、単純に怠け者で自業自得。
資本主義が、一番効率よく仕事をしていた時代ともいえます。

しかし、そんな絶好調も長くは続きません。
資本主義は利潤を動機にして進むシステム。供給不足なのであれば、設備投資を行って効率化を行い、生産性を伸ばしていくことが善とされ、供給は需要にいずれ追いつきます。
その上、時間が立つことによって、焼け野原となって没落したライバルである、日本やドイツが復活してしまいました。
一旦焼け野原になった事で、日本やドイツは工場を作る際には最新の設備を揃えることが可能となり、高品質・高性能のものを安価で生産することが可能となってしまいました。
ただでさえ、アメリカ国内で生産性が上昇して供給力が増えている状態で、ライバルが登場した場合、どのような状態になってしまうのでしょうか。

考えなくてもわかりますね。 不景気です。

この不景気、アメリカは、どの様に向かい合ったのかというと、当時、俳優として顔が売れていたロナルド・ウィルソン・レーガンを大統領に仕立て上げ、その補佐役としてウォール街の重鎮を据えて金融政策で乗り越えようとしました。
その結果として生み出されたのが、『レーガノミックス』と呼ばれる経済対策。
今の日本の『アベノミクス』の語源となった言葉ですね。

ウォール街の傀儡政権が打ち出したレーガノミックスは、資本主義をより推し進めるものでした。
大企業を優遇し、富裕層に対する税率を引き下げる。金が無いので、福祉のレベルは引き下げる。そして、富裕層がより投資を行いやすいように、規制緩和を行う。
こうする事で、企業や富裕層はより利益を得られる為、国際的な競争力が増し、雇用も増え、結果的に税収も多くなる!
金持ちがより豊かになれば、経済を刺激して貧困層も恩恵に預かれる!トリクルダウン!!

あれれ? どっかで聴いたような政策ですね。
これによって何が起こったのかというと、目先の利益に走った企業は、分業化によって現場職員を細切れにし、発言力を奪った上で賃金をカットしました。
それらの影響により、会社上層部と現場職員との給料格差は絶対的なものとなり、貧困層の数は膨大な料に増えました。
その為、自己破産申請件数は急激に上昇して政策実施前の数倍に膨れ上がり、病院の抗うつ剤処方数も劇的に増えることになりました。

当然といえば、当然ですよね。今までは、富裕層に対する税率が高かった為、従業員から搾り取ったとしても、その金の大半は国によって搾り取られることになっていました。
しかし、企業や富裕層への減税によって、国がピンはねしなくなれば、企業や富裕層は搾取すればする程、自分の資産が積み上がっていくわけですから、搾取の手を強めたわけです。

ですが、この搾取によって企業の業績は過去最高となり、また、証券投資への規制緩和によって、株価は急激に値を上げることになります。
そう、資本主義の主な指標である、企業業績と株価だけは上昇したんです。 労働者が手にするはずだった報酬と引き換えに。

その政策が長年続き、経済が再び安定した時、国はまた、市民を不幸のドン底に突き落とすことにします。
それが、政府が創り出した不動産神話。不動産とは、単なる土地ではなく資産だと主張し、その土地を担保に金を借りれば、自由にお金を使えると主張。
仮に2000万円の家を保有していれば、それを担保に2000万円を銀行から借りれて、利息だけ払って自由に使えば良い。仮に返せなくなったとしても、家を明け渡せばチャラになる。
不動産価格は下がることはないので、土地上昇分を毎年借り入れることが出来るし、それを利息返済に回せば、家を取られることもない。

甘い言葉を中央銀行総裁が囁き、それに銀行が乗る形で、住宅向けローン市場が熱を帯び、その流れはサブプライムローン問題につながっていく。
そして起こったリーマンショック。 銀行は、国の税金から7000億ドル受け取り、倒産を回避したが、それに巻き込まれた多くの住民は家を失い、ホームレスになった。

これにより、アメリカの現場職員と富裕層の立場は決定的となります。
日本では憧れのパイロットも、アメリカでは合理化が勧められまくり、年収は日本円で200万円を下回ります。
パイロットは大学に出ているため、学資ローンなどで社会人になるまでに10万ドル(約1000万円)の借金を背負っていることが多く、その借金を年収1万7千ドルの中から支払わなくてはなりません。
航空会社の面接では、試験官に『うちの制服を来たまま、生活保護を受け取りに行くなよ。』と真面目な顔で注意され、パイロットの仕事をバイトを行いながら行わなければ食べていけないそうです。

また、オバマ大統領誕生前は、貧困層医療保険も入れない為、まともに医療設けられない。
しかしその一方で、会社は社員に対して多額の生命保険をかけていて、社員が死ぬ度に数億円を会社側が得られるという仕組みになっている。
つまり、会社がブラックになって過労死すればする程、会社は儲けが出るという仕組み。

まぁ、控えめにいって、完全に地獄ですわ。

更に資本主義の凄いところは、資本主義は成熟すればする程、この流れが加速するってところです。
というのも、資本主義社会では、一番カネが儲かるのは投資関連で、当然のことながら、就職人気の上位に金融関連企業が入ることになる。
つまり、教育機関が育てた最高の知能が、金融市場に就職していくということ。
ですが、金融市場というのは基本的には何も生み出しません。資産を右から左に流すだけで、商品や食料を生み出すわけではない。
では、国内最高頭脳の金融関係の方の給料はどこから出てくるのかというと、何処かから搾取してきた金ということになります。

これが続くと、実際に商品や食物を生み出している現場はドンドン疲弊していき、国力は下がっていくことになります。

この後を全速力で追いかけているのが、私達が住む日本というわけです。
歴史は繰り返すといいますが、他国で数十年前に始まって現在進行形で進んでいる出来事も、場所が変われば繰り返されるという事がよく分かる作品でした。
そういえば、今週末(2017年10月22日)は選挙ですね。 幸い、私達が住む日本は民主主義なので、投票先によって制作は変えることが可能です。
テレビや権力者が話す言葉ではなく、自身の置かれている環境を見直した上で、投票することが大切なのかもしれませんね。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第16回 ゴータマ・シッダールタ(2)

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回は、輪廻転生やこの世が苦しみであると言ったことや、仏教の開祖となったゴータマ・シッダールタが悟りを得るまでの話を、簡単に説明していきました。
今回は、前回簡単に紹介した内容を、もう少し詳しく説明していこうと思います。

苦しみについての大まかな考え方は、前回で語っているので、詳しく知りたい方は前回の放送を聞いてもらいたいのですが、簡単に言うと、苦しみとは相対的な概念なので、この世から無くすことは出来ないという事です。
苦しみをこの世から完全になくしてしまった場合は、それと対になっている幸せという概念も消滅してしまいますし、この世が楽しければ楽しいほど、死は恐ろしいものとなっていきます。
光が強ければ、それだけ影は濃くなるということでしょうか。

苦しみについての大まかな考え方は、この通りなのですが、今回は、輪廻転生と組み合わせた形で、別の側面から観ていきます。
まず、この世が苦しみで満たされているという発想と輪廻転生という発想は、当時、インドを支配していたバラモン教の世界観が強く現れた発想です。
インドでは、現在もカースト制が採用されています。カースト制とは、日本でも有った士農工商といった身分制度のことで、生まれながらにして身分を決定し、労働の役割分担や差別などを行っていたんです。
この様な身分制度ですが、これを運用していくというのは、結構難しかったりします。

というのも、身分制度で中間層に位置する人間は、自分よりも下のものを虐げる事で鬱憤を晴らせますが、最下層の人間は、ただ、辛い現実を突きつけられることになります。
最下層の身分の者を虐(しいた)げ過ぎて、全てのものを奪ってしまうと、失うものが何もなくなった最下層の人達は、開き直って暴動を起こすなんてことも考えられます。
日本の場合は、実質は最下位である農民を、建前として武士の次という上位に持っていくことで、気持ちのやり場を調整しようとしていたんですが、それでも、失うものが何もなくなった状態に追い込まれると、一揆などを起こしてましたよね。

古代インドでは、その調整として、輪廻転生やカルマといった概念を持ち込んで、そんな気を起こさせない様にしようとします。
カルマというのは、簡単にいえば、自分の取った行動を数値化するような考え方です。
悪いことをした際にはマイナス何ポイント。 善い行いをした場合には、プラス何ポイントと言った具合で、人の行動を人生を通してポイント化していって、最終的に死んだ時に判定が行われて、善い行いをした場合は
上位の身分として生まれ変わるといった感じでしょうか。

つまり、自分が最下層の身分として生まれたのは、前世や、それよりも前の人生で悪行を積み重ねてきたからで、自業自得。
その身分から抜け出したいのであれば、現世で善行を積む事で、少しでもマイナスポイントを減らし、プラスに持っていくことで、次に生まれ変わる時には高い身分として生まれ変わることを願うといった考え方ですね。
最下層の身分に落ちたのは、過去の過ちのせいなので、それを差し置いて暴動を起こすなんてとんでもない行動。
もし、国の制度に対して反発し、暴動を起こすなんて事を行動に起こしてしまえば、それは悪行とされる為、次に生まれ変わった世界で更に苦しむ事となる。
この様な考え方によって身分制度を肯定し、暴動を抑えていたんですね。

この時代というのは、今のようにネットがあるわけでもなく、義務教育があるわけでもありません。
知的階層以外の人達の識字率も少ないでしょうから、知識を有する人達から、カルマや輪廻転生といったものを利用した一種の脅しを受けると、それを真に受けて、奴隷の生活を受け入れる人も結構な数がいたんでしょうね。
このカースト制の浸透は凄く、ブッダと共に荒行をし、その後、ブッダの理論を聴いて感動を覚えた人間ですら、『ブッダが35の若さで悟りを開けたのは、何度も生まれ変わり、その度に善行を積んでいたからだろう。』と思われる程に
信じられていたようです。

これに対し、ゴータマ・シッダールタが主張したのは、悟りを得る事による『解脱』です。
解脱とは、輪廻転生の鎖を断ち切って自由になろうという考え方で、言い換えれば、カースト制の否定にも繋がる主張です。
何故、カースト制の否定につながるのかというと、カースト制を維持し続ける為には、先程も言いましたが、輪廻転生が不可欠です。
低い身分に生まれるのは、前世で悪いことをしたから。だから、酷い仕打ちを受けるのは当然の事。
その辛い仕打ちを耐え抜いて、上の階層の者の役に立つ事で徳を積めば、次に生まれ変わった時には、今よりも上の階層に生まれ変われるという世界観が前提となっています。

しかし、悟りを得ることで解脱が出来、この世に生まれ変わらなくて良いのであれば、今生きている人生が最後の人生ということになります。
次に生まれ変わった際の心配もしなくて良いので、今この瞬間を自分の思い通りに生きることが出来ます。

では、悟りを開く為には、何をしなければならないんでしょうか。
この当時、インドでは荒行が流行っていたそうなんですが、その様な厳しい修行を耐え抜かなければならないのかというと、そうでは無いんです。
ブッダは、荒行や瞑想と言った、その当時主流だった修行は一通り行いましたが、それらでは悟りは開けないことを明言しています。
結果としてブッダは、菩提樹の元で3日間考え抜いた後、悟りを得ています。

では何故、荒行などの修行は必要ないのでしょうか。
それは、そもそも荒行とは、梵我一如の考え方を誤解したことで生まれたものだったからだそうです。
梵我一如の考え方は、宇宙と個人の根本原理は同じものなのだから、宇宙の根本原理である真理を得るためには、自分の事をしる。つまり自己探求が必要だという考え方です。

その自己探求の結果として、アートマンとは自分を構成している あらゆるモノでは無い存在ということが分かります。
言葉で表すなら、『非ず、非ず』としかいえないもの。あらゆるものに対して『そうじゃない。それではない。』としか言えないものということです。
つまり、自分が纏っている身分や所有している財産のことではありませんし、自分の外見や、体その物の事でもありません。
アートマンとは、ただ観測しているだけの存在で、ただそれだけでしか無いものという事です。

この考え方が、時代を経る事に変化していくことになります。
梵我一如を説いた、ヤージュニャヴァルキヤがおよそ紀元前750~前700年の人物で、ブッダは、しっかりとした記録が残っていないせいか、様々な説が有るんですが、紀元前600年~380年の間の何処かと言われています。
ヤージュニャヴァルキヤがなくなってから数百年経っての登場なので、ブッダが登場するまでの間、梵我一如は解釈が解釈を呼んで、オリジナルからかけ離れたものになっていたんでしょうね。

では、どの様に誤解されていったのかというと、アートマンというものは、観測することが出来ず、故に壊れることも傷つけることも出来ずに、死ぬこともない存在なので、人間が肉体的に感じる感覚は、アートマンではないことになります。
この考え方がドンドン飛躍していって、肉体的感覚と精神的なもの、つまり、魂的なものとを分離させようとする試みが行われます。



その過程で生まれたものの一つが、荒行だったりします。

もう少し説明すると、肉体的な感覚や、肉体が存在することによって生まれる拘束感などは、アートマンでは無いものなので、それらを感じないような境地に自身を追い込んでいきます。
例えば、何日も食事を取らないと、肉体は当然のように食事を欲するため、空腹に襲われます。
ただ、空腹という感覚は肉体が存在することによって生まれる苦痛や欲望なので、アートマンではありません。
アートマンとは、傷つかず壊れず、故に、死ぬことがないものなので、その苦痛や欲望はアートマンとは程遠いものと考えられます。
これらの苦痛や欲望を、精神的に押さえ込む事によって、本来のアートマンに近づこうと思ったわけです。

確かに、荒行というのは苦しみや凄さが数値として理解できる為、一種の基準としても使えるため、非常に便利なものです。
隣の修行者が9日の断食に成功したのであれば、自分は10日間の断食に成功すれば、その人間よりも苦痛に耐えた事となり、自分の方が偉業をなしたと他人に説明しやすいですし、この記録を11日・12日と伸ばしていくことで、成功に近づいている感覚が得られるので、目標も立てやすくなります。
しかし、この荒行を行うという行為は、行えば行うほど、アートマンからは程遠くなっていきます。

というのも、苦痛を乗り越える、苦痛を耐え抜くという行為は、苦痛というものを無くしては生まれない価値観だからです。
他人に真似出来ない程に苦痛だからこそ、その行為が偉業とみなされるわけですし、苦痛を伴からこそ、頑張ったという実感が得られます。
逆に、誰が行っても苦痛を感じないような行為であれば、その行為を行ったとしても誰からも尊敬されませんし、一歩づつ進んでいる実感も得られません。
この荒行という行為は、苦痛という感覚に完全に依存した行為で、苦痛が存在しなければ意味をなさない行為です。

別の視点から見れば、苦行というのは肉体が苦痛を感じなければ意味を成さないということなので、肉体による感覚に依存するとも考えられます。
ですが、先程からも言っている通り、アートマンとは肉体やそれに付随する感覚のことではありません。
にも関わらず、完全に肉体の感覚に依存している荒行は、根本的に間違っているということです。
この間違った行為である荒行が推奨され、尚且つ、荒行に耐えた人間が神のように扱われることで、プライドまで満たされる。
これは、完全にアートマンに意味を取り違えているわけで、この行為を続けたとしても、悟りなんて開けるわけがないということですね。

では何故、この様な誤解をされたまま、荒行が流行することになってしまったんでしょうか。
理由は2つあって、一つは、アートマンというものの理解が非常に難しく、大半の人間が、肉体的な感覚に依存した考え方しかできないからなんです。
私は、死の恐怖というものが昔から少なく、不安というものもそんなに感じない状態で生きてきました。
これは今も同じで、今私が生きているのは、今直ぐにでも死にたい理由というものが無い事と、自分が死ぬことで、親が生きる意味を失ってしまうからなんじゃないかという思いから、積極的に死のうとは思っていないだけなんです。

この様な考えは、単純に私がアートマンの意味を理解しているとか、悟っているとかと言ったものとは関係がなく、単純に平和ボケという事もありますし、満たされた生活を送ったせいで欲望が薄いからかもしれません。
理由はよく分かりませんが、日常生活において『死んだらどうしよう』なんて心配はすることがなく、そういった意味では、死の恐怖からは開放されているともいえる状態を維持しているんです。
このことを、中学時代に当時の知り合い3人程に話したところ、その知り合いは、口を揃えて、私の考えを否定し始めました。

例えば、『今現在、観ている漫画やアニメ、ドラマなんかがあるでしょ? 今死んだら、それらが全て見れなくなるんだよ?』
とか、『じゃぁ、この場で手足を縛って拘束して、足から1センチずつノコギリで切っていっても、良いんやね。』と言った、見当外れの事を言い始めたんです。
この反論は、荒行を肯定している当時のインド人と同じことで、肉体と意識を同一視した結果、出て来る言葉です。

前者の、楽しみにしているコンテンツが見れなくなるのは良いのか?といった質問は、そもそも肉体というものが存在して、時間という概念がある世界にいるから、暇な時間というものが生まれて、その時間を埋めるために行っている作業が、コンテンツを楽しむという事です。
そのコンテンツを見るために生きているわけでも生まれてきた訳でもありません。例えば、何らかのアクシデントで1話見逃すといった事が起こっただけで、観る気をなくしてしまう可能性がある程度のものですし、他にやるべきことがある場合は、後回しにされるようなものですよね。
死というのは、人生の中で最大の変化なので、それに対する恐怖が薄い人間にとって、コンテンツが見れなくなる恐怖なんてものは無いに等しいわけで、コンテンツを楽しめなくなるから死にたくないなんて考えはナンセンスですよね。

そして、後者の足を1センチずつ切り刻んでいくという拷問ですが、これは完全に論外なんですが、この様に考える人が多いからこそ、荒行なんてものが肯定され続けてきたんでしょう。
というのも、仮に、この拷問によって泣き叫んだとしても、それは、痛みを感じて泣き叫んでいるだけであって、死にたく無いというのとは全く関係がない事ですよね。
これは冷静になって考えてみれば、肉体的な痛みと死という全く別のものを同一視する事によって起こってしまう錯覚でしか無い事が、分かると思います。

じゃぁ、苦しまずに死ねる薬が合ったとして、それを差し出されたら飲むのかというと、これも、別の話ですよね。
私は、積極的に死にたいといっているわけではなく、死ぬことに対する恐怖が無いと言っているだけなんですね。
つまり、痛い思いはしたく無いし、積極的に死のうとは思っていない。でも、死に対する恐怖が無いと言っているわけです。これは言い換えると、今この瞬間に不可抗力で死んだとしても、人生に悔いはないという事になるんでしょうか。
当然、死ぬという事は人生において最大の変化でしょうし、生き物は変化を嫌うものなので、状態が大きく変わることに対して不安が全く無いのかといえば、そんなことはありません。ですが、その状態に絶対的な恐怖は感じていないということなんです。
ですが、苦痛や変化に対する不安を、死に対する恐怖と同一視してしまう人は、この辺りの違いというものが理解出来ない為、苦痛や不安を乗り越えることこそが、恐怖を乗り越える唯一の手段と思ってしまうんでしょうね。

2つ目の理由としては、荒行を通して悟りの境地のようなものに到達した人が、実際に結構いたからなんだと思います。
例えば、長時間の間、走り続けるという荒行を行う人がいたとします。 人間は、長時間、苦痛を受け続けると、その苦痛を和らげる為に、脳内麻薬を出して苦痛を和らげたりします。
ラソンランナーが、ランナーズハイの状態になって苦痛から開放されるなんて話も、結構聴きますよね。
この様に、人間は苦痛に耐え続けることで脳内麻薬が分泌されて、変性意識状態になります。

私自身も、過去に社会人になってから空手道場に通っていた時期があり、一時期、仕事が終わってから4~5時間の稽古を週5~6日行うするという生活を過ごしていた時期があります。
この生活を2年ほど続けた時、日常的に幻覚が見えるようになりました。 それだけではなく、異様に体が軽くなる感覚など、明らかに普通の状態では無い状態が結構続きました。
私の場合は、道場通いは趣味で行っていた為、本当に辛い時には休めるという逃げ道もあったので、精神的には楽だったということもあって、この程度の症状で済んでいましたが、これが、半ば強制されるような状態で、自身を追い込まなければならない義務感などがあった場合、更に重い症状が出ていたかもしれません。

この様な状態は、先程のランナーズハイと同じ様な感じで、体が苦痛から開放されるように脳内麻薬を出した結果、変性意識状態に入ったんでしょうけれども、この変性意識状態で、宇宙と自身が一体となる梵我一如的な感覚が体験できるような状態に陥ることもあるようです。
宇宙と個人の一体感を体験として知るというのは、古代のインド哲学では正に悟りの状態ともいえるので、その神秘体験をした人間を一定数生み出した荒行は、真理に近づく有効な方法だと思われていたのかもしれません。
ブッダ自身が、この様な神秘体験を経験したのかどうかは分かりませんが、仏教の世界では、この体験だけで悟りを得たとはしていないようなので、これをもって、真理に到達することは出来ないとしたんでしょう。

では、涅槃の境地に辿り着くためには、何を知るべきなのかということについては、次回から、語っていこうと思います。

【ゲーム紹介】 ニーアオートマタ #PS4

今回は、『ニーアオートマタ』というゲームの紹介をしたいと思います。


      

このゲームですが、2017年の2月に発売された日本のゲームにもかかわらず、じわじわ売れ続け、新品価格も下がること無く、中古でも販売価格や買取価格を高値で維持し続けている、結構、人気の高い作品となっています。
作品自体は、発売前から一部では話題になっていましたし、シリーズの固定ファンも多かったようなのですが、その流れに何となく乗りたくなかったりしたので、購入をずっと見送っていた作品です。
ただ、じわ売れし続けているというのが気になり、プレイせずにモヤモヤするぐらいならプレイしてみようと思い、購入していました。

プレイしてみた上で、簡単にゲームを紹介してみますと、雰囲気ゲーといった感じでしょうかね。
ゲーム内容としては、ポストアポカリプス系の文明が崩壊した世界を、格好いいキャラクターを操作しながら無双するゲーム。

シナリオ的には、SFと哲学を合わせたような感じで、その世界観に、スタイリッシュな感じの独特のキャラクターが登場。
お姉さんキャラや弟キャラ、格好いい知的なメガネ男子の兄と、その兄を物凄く慕っている、やんちゃな感じの弟キャラ。
色んなジャンルのネタにしやすいようなキャラクターが勢揃いで、コスプレや薄い本を書いている人にとっては、テーマに扱いやすくて良い感じなのかもしれませんね。

発売当初は、レビューなども結構荒れていたようで、私も食わず嫌いな感じで未プレイだったのですが、実際にプレイしてみた上での個人的な感想としては、普通にそこそこ楽しめた作品でしたね。
スタイリッシュなキャラクターが、□ボタンを連打するだけで格好良く動いてくれますし、敵が攻撃したタイミングで回避ボタンを押すと、攻撃モーション中でも回避してくれます。

レベルという概念がありますが、意識的にレベル上げをする必要もないバランスで、レベル上げのストレスも無い。
レベル上げを意図的に行って、普通よりも高いレベルでストーリーを消化すると無双ゲーに変化して、これはこれで爽快感があって面白い。
また、ポッドと呼ばれる支援システムがかなり有能で、これを駆使すれば、戦闘面で困ることは殆ど無い状態になります。このポッド操作は、カメラ操作で行う為に最初は難しいですが、少し進むと、ポッドに自動で攻撃させることが出来るモードが追加される為、戦闘が一気に楽になります。

また、主人公を強化する為のチップというアイテムをカスタマイズすることが出来るのですが、『オート回避』『オートアタック』等のチップを装備すれば、自動で攻撃してくれる上、『オート回復』で自動的に回復アイテムまで使ってくれるため、アクションが苦手な人でも安心設計。
一応、難易度設定と言うものが存在しますが、それに加えてチップによって難易度が変化する為、自分好みのゲーム難易度に自由に変更できるシステムというのは、面白いと思いましたね。

マップについてですが…
ポストアポカリプスという事で、人類がいなくなった感じの世界観を上手く表現できているとは思うのですが…
超大作のFallout等と比べてしまうと、手抜きの印象を抱いてしまいますね。

『森』や『砂漠』『廃墟』といった感じの、同じ様な景色がループするマップをひたすら走らされるので、移動が暇。
砂漠などは本当に砂だけで、砂漠マップのド真ん中にセーブポイントがあるだけというのは、正直、つまらないという印象を抱いてしまいました。
ですが、その単調なマップも、所々で強制的にカメラを真上や真横からの視点に切り替えられる為、ゲームの雰囲気が変わって飽きないような工夫も感じられるので、人によって感想は変わるかもしれませんね。
私個人としては、探索する楽しみというのは得られませんでした。

シナリオは、先程も書いた通り、SFと哲学を合わせたような感じのストーリー。
私自身は、漫画でいうと『銃夢』や『攻殻機動隊』、映画だと『ブレードランナー』や、その原作となった小説の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』等が好きなので、このゲームの設定や世界観、ストーリーは、何度も観た感じのストーリーで、あるあるって感じでした。
ゲームが開始した直後ぐらいに主人公が発した『アンドロイドに感情を持つことは許されいない』とか、相方の『機械生命体の発する言葉に意味はない』というセリフから、作品の大まかなメッセージがすぐに理解できましたし、その予測は最後まで外れずに、思った通りの展開になりました。
Amazonレビューなども見ましたが、低評価レビューの多くが、その理由にストーリーの薄さを挙げていましたが、この、過去の作品の焼き直し感が、そういう批判を呼び込んだのかもしれません。

ですが、攻殻機動隊、特に漫画版などは、読破するのも一苦労ですし、読破したところで、細かいところまで理解するのが難しい。
また、とっつきにくく、非常に排他的なもので、そもそも筆者が読者に理解させることを前提として書いてない印象すら受ける作品。
ブレードランナーや原作小説も、そうとう昔の作品で、発表当時は今の20代なんかは、そもそも生まれていない。
これを書いているアラフォーの私ですら、大きくなってから古典を読み解くような意気込みで手にした作品なので、若い方でこの分野に興味のない方は、そもそも読んでいないことが多いでしょう。

深いSFや哲学という分野は、それぞれが『分かる人だけわかれば良い』というスタンスで書かれていることが多く、かなり排他的な世界。
興味を持っていたとしても、入り口で追い返されるような感覚に、これらの世界に入っていけなかった人も結構多いと思います。
こんな感じの世界に入っていこうと思うと、相当、この分野が好きだという気持ちがなければ、そもそも入っていけません。

その一方でこのゲームの場合は、非常に解りやすく作ってあります。
小難しいことを話す機械生命体のキャラクターで、『サルトル』という人物がいるのですが、このキャラクターは『てつがく』という意味があるのか無いのかわからない、難しいことを考えている人物として紹介されます。
このゲームをプレイして、サルトルという人物に興味をもってGoogleなどで調べると、実在する哲学者のサルトルが検索でヒットするでしょうし、ゲームから哲学への流れが起こしやすいような作りになっています。

また、その人物がいる村で起こるイベントでは、村長に『哲学書』を届けるというクエストもあって、哲学を匂わせるというよりも、そのものズバリで哲学を推してきます。
イベントの数々も、プレイヤーに哲学的な問を考えさせるような内容になっているので、この分野に全く触れてこなかった人にとっては、知的な気分も味わえて非常に面白いと思いますね。

このゲームは、プレイヤーが今までに観たり楽しんできたコンテンツによって、面白さが変化するゲームだと思います。
ゲームに限らず、深い世界観やシナリオの作品に触れている人にとっては、然程、新しいことをしていないかもしれませんが、今から色んなコンテンツに触れていこうと思う人にとっては、色んな要素が詰め込まれている良い作品だと思います。
表現方法もストレートで、物凄く分かりやすいですしね。

興味のある方は、プレイしてみてはいかがでしょうか。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第15回 ゴータマ・シッダールタ(1)

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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第9回から12回では、インド哲学を中心に話し、前回と前々回では、東洋哲学で中心となる、体験としての理解や、言語の限界について話してきました。
簡単に振り返ってみると、この世のあらゆるものを瞑想によって同一視していき、最終的に宇宙まで拡大したのが、ブラフマンと呼ばれる宇宙の根本原理。
そして、自分の内側に焦点を当てて、最も根本的な部分にまで分解して到達する個人の根本原理を、アートマンと呼ぶ。
アートマンとは、『非ず、非ず』つまり、全てのものに対して『そうじゃない』としか答えられないもので、ただ、観察するだけの存在です。

このアートマンブラフマンが、同一のもの。つまり、宇宙の根本原理と個人の根本原理は同じものと主張したのが、梵我一如の考え方です。
この、梵我一如の考え方を、言葉やそれによる知識では無く、体験によって理解する事を重要視するのが、東洋哲学です。

では、言葉や理論による知識ではなく、体験によって理解するとはどういうことなのかというと、あらゆる物を直感として認識する境地とでもいうのでしょうかね。
彫刻家が、石を見ただけで、その石の中に完成形が埋まっているイメージを直感として認識して、それを掘り出すような感覚です。
言葉では言い表すことが出来ない、体験やイメージ。そして、それを実現するための方法や法則を直感で導き出すことが出来る状態が、体験によって理解する状態といえば良いんでしょうかね。

何故、言葉では無く経験を重視したのかというと、言葉というのは、そもそもが不完全なもので、人のイメージを正しく伝えることが出来る代物では無いからです。
例えば、私が皆さんに向かって、『赤色』を想像してみてくださいと言った場合、一人ひとりが思い浮かべる色は、似通っていはるけれども、それぞれ別の色でしょう。
燃えるような赤い夕日の赤を想像する人もいらっしゃるでしょうし、リンゴの赤を思い浮かべる方もいらっしゃるでしょう。
赤信号の色を思い浮かべる方や、ポストの色を思い浮かべる方もいらっしゃるでしょう。
それらは全て赤ですが、私が思い浮かべた色と全く同じかといえば、それは違うでしょう。また、そもそも生まれながらに盲目で目が見えずに、色というものを知らない方は、思い浮かべることすら出来ないかもしれません。

言葉とはその程度のものなので、色のような単純なものではなく、もっと複雑なイメージの場合は、それを言葉に変換して伝える事はそもそもが無理ですし、まして、それを他人に伝えて正しく理解して貰うとなると、更にハードルは上がってしまいます。
なので、言葉やそれを元にした理論では無く、体験による理解を良しとしたんでしょうね。

では、インド哲学では、何故、梵我一如といったものを、体験によって理解しようとしたでしょうか。
東洋哲学では、生きるということは苦しむことだという考え方があって、そこから、どのようにすれば抜け出すことが出来るのかという事を中心に考えていたからといわれています。
東洋系の宗教には、輪廻転生という考え方が有りますよね。
この輪廻転生を、『死んでも、また生まれ変わって来れる。』とか、『次に生まれ変わるなら、こんな感じで転生したい』とか『自分の前世は○○だった。』という事を無邪気に話す方も、現代では多いと思いますが、
そもそもの輪廻転生とは、例え死んで苦しみの世界から開放されたとしても、また現世に生まれ変わって苦しまなければならないという考え方で、その輪廻の輪から如何にして抜け出すか。
つまり、解脱するのかというのが一大テーマだったんですね。

そこまで、生きていくことが苦しいのと、疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれませんけれども、紀元前の世界では、今のように豊富に食料があるわけでもありませんし、娯楽が有るわけでもありません。
病気や怪我で簡単に死にますし、子供を産むという行為も命がけですし、そこまでのリスクを犯して産んだ子供も、成人まで育つかどうかも分かりません。
また、比較的裕福で、生活の心配がない支配者層の人たちの場合は、普段の生活に苦しみを感じなかったとしても、老いることによって今と同じ生活ができなくなる事。または、いずれ死んでしまうことについて恐怖し、思い悩みます。
生きていくのが楽しければ楽しいほどに、そこから絶対に退場しなければならないという状態は苦痛とも考えられます。

また、快楽や幸せや達成感などの感情は、基本的には苦痛とセットになっていますよね。
どういうことかというと、快楽というのは、言いかえれば苦痛ではない状態なので、快楽を得るためには、絶対に苦痛や苦悩・絶望というマイナスの感情が必要です。
これは、SMのMといった感じの意味ではなく、苦痛というものが存在するから、快楽が存在するということです。
仮に苦痛などのマイナス感情が一切なく、楽しいことだけで人生の時間を埋めていくと、それは楽しい出来事ではなくなってしまい、日常化してしまいます。
日常化してしまうと、そこに幸せを感じることが出来ず、幸せという実感を得るためには、1段階上の更なる幸福な状態を体験しなければなりません。そして、上の段階の幸福な状態を体験してしまうと、日常が幸せではない状態、つまり不幸な状態へと、1段階落ちてしまいます。
プラスという概念は、マイナスという概念がないと存在しないというわけですね。

他の感情である達成感なども同じで、コツコツと積み重ねた事が報われた瞬間に、達成感というカタルシスが得られます。
この、コツコツと積み重ねることは、基本的にはマイナス感情で構成されなければなりません。
仮に、コツコツと積み重ねること、そのものが楽しい状態なのであれば、ゴールは達成感を得られる目指すべきものではなく、今現在の、楽しい日常が終わってしまう悲しい出来事になってしまいます。
コツコツと頑張ること自体がが楽しいと感じる人にとっての楽しい人生とは、永遠にゴールを迎えない状態で努力することになってします。

映画でいうのであれば、『うる星やつら』の劇場版、ビューティフル・ドリーマーのような世界観になるんでしょうか。
この作品の事を余り知らない方は、良い作品なので、この後に話すネタバレの前に、放送を止めてもらって、是非みてもらいたいんですが…
ネタバレを気にしない方、既に観て、内容を知っている方に向けて、ネタバレを含んで話すと、この映画は、文化祭の為に、皆で一丸となって準備をするという、文化祭前夜の話がメインになるんですね。
そして、そこの登場人物たちは、忙しいながらも、楽しく準備をしているわけですよ。
つまり、この作品内において文化祭の当日というのは、目指すべきゴールのはずなんですが、それを迎えてしまうと、今現在の、楽しい 非日常的生活が終わってしまうという状態に置かれているんですね。

そういう気持ちを、登場人物の多くが共有していて、心のすきを付かれたからなのか、映画では、ある登場人物の能力によって、文化祭の前日がループし続けるとい世界に変わってしまうんです。
ただ、登場人物たちは、日常化する非日常的な生活が楽しいのか、その事を気が付かないままに、ループした文化祭前日を、過ごし続けるんですね。
この状態は、ゴールが永遠に訪れないという事を知らない状態で、つまり、永遠に繰り返される日常の中で、毎日、明日が文化祭と思い続けて行動し続けるのであれば、永遠に楽しい人生が続くのかもしれません。
ですが、そんな状態というのは存在しないわけで、存在するとすれば、非常識なことでも普通にありえる夢の中ぐらいですよね。
現実の世界では、達成感を得るためには、コツコツと自分の意に沿わないことを行い続けなければなりませんし、その中に楽しみを見出してしまうと、訪れる終わりが悲しいものになってしまいます。

これらの苦痛から抜け出す為に、必死に考えて、ヤージュニャヴァルキヤが到達した境地が、梵我一如だったわけです。
梵我一如の境地に至れば、誤解なく、自身は認識しているだけの存在と知ることが出来るので、この世のあらゆる苦悩から距離を置くことが出来ます。
また、全ての事柄に対して『非ず、非ず』という存在であるアートマンは、傷つけることが出来ずに破壊することも出来ない存在なので、自ずと、死の恐怖も感じなくなります。

ただ、この梵我一如の考えは、時代を経るごとに誤解され、間違って解釈されて行くことになります。
その間違いを、もう一度修正したのが、悟りの境地にたどり着いたとされるのが、ゴータマ・シッダールタ
いわゆるお釈迦様やブッダと呼ばれる人で、仏教の開祖とされている方ですね。
呼び方が色々と有るのは、ゴータマ・シッダールタという方が、釈迦族の王子さまで、その後、王子のみでありながら出家したという経歴から、お釈迦様と呼ばれたり
悟りを開いた人の事を、『目覚めた人』という意味で、ブッダと呼ぶところから、悟りを得たゴータマ・シッダールタさんの事をブッダと呼んでいたりするんですが、全て、同じ人の事です。
このコンテンツでは、短くて言いやすいという理由で、以降は、ブッダと呼ぶことにします。

という事で、これ以降 少しの間、ブッダについて話していこうと思います。
で、一応、誤解の無いように、最初に言っておこうと思うんですが、ブッダは仏教の開祖ということもあって、宗教的な話も結構出てきます。
また、開祖で尊敬の対象となっていたせいか、伝わっている話も、かなり話が盛られている事も多く、どこまでが本当の事なのかがわかりにくくなっています。
と言うかむしろ、ブッダについての歴史を読めば読むほど、本当のことが書かれているのかどうか が不安になるレベルといっても良いかもしれないですね。

まぁ、ただ、宗教で教祖を祀り上げるというのは珍しいことではないですし、キリスト教のような大きな組織でも、ありえないような奇跡が実際に起こったと主張しているわけですし、仏教だけ特別というわけでもないんでしょうけどね。
で、前にも少し話したとは思うんですが、このコンテンツでは哲学を中心に話しているので、今回からの話についても、宗教的側面ではなく、極力、哲学的なことに焦点を当てて話していこうとは思うんですが…
初期の仏教は、哲学的な考え方が多く、宗教とは切り離せないような感じで融合してしまっている部分も多いので、宗教的な話も結構入ってくると思いますが、予め、ご了承くださいね。

という事で、先ずはブッダの人生を、簡単に振り返るところから始めてみようと思います。

まず、インドにある釈迦族という部族の王様の子供、つまり王子が、出家するところから始まります。
この王子が生まれたときの逸話としては、生まれた直後に7歩歩いて、天を指差して『天上天下唯我独尊』って言ったなんて話も有りますが、宗教の開祖の誕生秘話として盛られている可能性が高いので、この辺りの事は流します。
この王子の名前が、ゴータマ・シッダールで、後に悟りを開いてブッダと呼ばれることになります。

このゴータマ・シッダールタですが、最初は、荒行を行います。
まぁ、インドといえば、荒行ですよね。ストリートファイターシリーズに登場しているインドのダルシムも、荒行によって手足を伸ばすことを可能にしてますしね。
何故、インドで修行というと荒行になるのかというと、単純に、流行っていたからだそうです。

では何故、荒行なんてものが流行っていたのかというと、梵我一如の考え方というのが関係してくるんです。
梵我一如というのは、冒頭でも言いましたが、宇宙と個人の根本原理は同じものだとする教えで、同じものなのであれば、宇宙、つまりこの世のすべてのことを知るためには、自分を知る必要があるということで、アートマンについて掘り下げて考えていく考え方でしたよね。
このアートマンについて考えていった先に、アートマンとは、『非ず、非ず』としかいえないもの、つまり、ただ意識として世界の観測を行っているだけの存在で、外から観測できない実態が存在しない物であるというところまで考えが及んでいきましたよね。

この考え方というのが、誤解されていくことになるんです。前回と前々回でも言いましたが、言葉は不完全なものなので、難解な考え方であれば有るほど、真意は伝わりません。
では、どのように誤解されることになったのかというと、自分が今まで認識していた自分。つまり、肩書はもちろん、肉体といった体も自分自身では無いわけだから、肉体とアートマンとを分離させる為には、肉体にどんなに辛いことが有ったとしても、動じない精神が必要になると解釈したんですね。
つまり、長期間、食事を行わないとか、顔を土の中に埋めてしまうとか、肉体をつらい状態に置いたとしても、アートマンは傷つかないし、アートマンは苦しいはずがない。
荒行による苦しみを乗り越えることが出来れば、アートマンを実感することが出来るし、アートマンの存在を体験として知ることが出来れば、同一のものである宇宙の根本原理であるブラフマンも体験として理解することが出来るという感じに誤解されたんですね。

そしてこの誤解というのは、修行者にとっては、非常に受け入れやすいものだったんです。
というのも、人間というのは、何らかの基準が有ったほうが、判断がし易いものですよね。例えば、これだけ頑張ったんだから、結果が出るはずといった感じの安心感といえば良いでしょうか。
頑張ったんだから報われるはず!と、根拠なく信じれる人間は多いですし、そういったものは拠り所にしやすいので、荒行のような頑張りがいが有る修行は、一部の人にとっては実行に移しやすいんですね。
また荒行の場合、7日間断食した!とか、私は10日間断食に成功したよ!とか、数値化しやすいですし、他人とも比べやすいので、張り合いがいが有りますよね。
そんな感じで、古代のインドの修行僧の間で、大流行していたようなんです。

その流行に乗る形で、ゴータマ・シッダールタも荒行に参加します。
また荒行の他にも、ウパニシャッド哲学者のように、瞑想によって真理にたどり着こうともします。
これによって、無の境地や非想非非想処に到達する事にも成功したようです。
この2つの境地についても解釈が色々有るので、私の解釈としてしか話せないのですが、無の境地は、雑念や煩悩といった、人間が本来有しているものを無に返す境地といえば良いんでしょうかね。
非想非非想処とは、その発展形のようなもので、『無』つまり無い状態というのは、有るという状態ではない状態でしか無いわけですが、その前提である、在るとか無いとか言う物ごと、無い状態にするということといえば良いんでしょうかね。
例えば、机の上の皿の上にリンゴが乗っている状態を有るという状態とするなら、無の状態とは、その状況からリンゴを取り去った状態が、リンゴがない状態となります。
非想非非想処は、机の上に皿が乗っている状態というのが、元々存在していなかった状態といえば良いんでしょうかね。限りなく死んでいる状態といえば良いんでしょうかね。

これは、私もよく分かってない状態なので、言葉を重ねるほど誤解されると思うので、それぞれで理解してもらうしか無いんですが、まぁ、そういう状態のことです。

この、瞑想による2つの状態と、荒行を体験したゴータマ・シッダールタは、これらの修行に意味が無いことを理解し、菩提樹のもとで3日間瞑想し、悟りの境地に至ってブッダと成ったとされています。
そして、ブッダはその悟りを人に伝えたくて、昔、一緒に荒行をしていた5人の修行僧のもとに向かいます。
この5人の修行僧は、ゴータマ・シッダールタの事を、荒行が辛くて逃げ出した腑抜けと思っていた様なんですが、悟りの内容を聞いて感激し、この5人が中心となって、仏教というものを作り上げてブッダを開祖としたのが、仏教が出来るまでの大まかな流れです。

次回は、仏教の考え方などを、哲学的な視点で観ていこうと思います。

【ゲーム紹介】 KILLZONE SHADOW FALL (ps4)

今回紹介するゲームは、KILLZONE SHADOW FALL
この作品は、PS4発売時のローンチタイトルだった作品のようで、かなり昔の作品となります。
何故、今頃になっての、紹介・感想を書こうかと思ったのかというと、少し前に、PS plusのフリープレイに採用され、その際にダウンロードしたからです。


      

このゲームですが、フルプライスで発売されていますが、現在(2017/10/3)ではAmazonでも75%オフで購入できるようです。
ジャンルとしてはFPSなのですが、FPSでマルチが有るゲームは、マルチプレイの人口を確保するためにも、発売から期間が経つと値段が下がる傾向にあるようですね。

ちなみに、私はマルチプレイでは遊んでいないのですが、このゲームでは、他のゲームのようにレベルでアンロックされる武器というものがないようで、初心者も熟練者も使用武器は足並みが揃っているそうなので、後から始めるのも安心設計ですね。
逆にアンロックがないという事は、モチベーションが続かないという事にもつながりますけどね。

前置きが終わったところで、早速ゲームの紹介や、プレイした際の感想を書いていこうと思います。
私はキャンペーンモードしかプレイしていませんので、予めご了承くださいね。

このゲームですが、発売日は2013年と結構前なのですが、PS4の性能を引き出す為に作ったと言われているだけあって、映像は非常にキレイです。
特に、ヘリコプターに乗って町並みを見下ろすシーンがあるのですが、そのグラフィックは、思わず溜息が出るほどに美しい映像でした。

簡単なストーリーとしては、自分が子供の頃に、敵の兵士が突然、国境を超えて攻め込んで来るという状況になり、父親と一緒に逃げようとするも、父親は殺されてしまいます。
その際に、偶然、一緒になった自国の兵士に助けてもらい、何とか中立地帯まで逃げ込む事に成功。
その後、身寄りのない主人公は、その兵士に殺人兵器として育てられ、戦争を優位に進めるために、数々のミッションに送り出されるという始まりです。

実際にプレイしてみた感想ですが、始めは、かなり手こずりましたね。
私はSF系のFPSは初めてプレイしたので、そのジャンルではお馴染みなのかもしれませんが、このゲームは、無人ドローンを駆使して、自分の有利な状態にして進行していきます。

この操作に慣れるまでが、結構、難しかったです。
つまりは、第一ステージが一番難しかったということですね。

最初は、開けた自然がある場所に落ちた自国の船の乗組員の回収や、敵基地の放題の排除などを行うのですが、開けた森は隠れる場所が結構少なく、直ぐに周りを囲まれて死ぬというのを繰り返していました。
また、敵の端末をハッキングしなければ、警報が流されて、敵の援軍が続々と駆けつけてくるという状態になるのですが、ハッキングの仕方もあやふやなので、イマイチわからない。。
そんな感じで、とにかく最初で死にまくり、時間を浪費していました。

しかし、ドローンの利用方法が、ある程度わかる様になってくると、かなり状況は変わってきます。
ドローンで出来ることは、敵方向に移動しながらマシンガンを撃つ事と、強烈な光と電撃で敵を一定時間無効化すること。
そして、自分自身の前にシールドを張る事と、ジップラインを出す事。

ジップラインは移動手段なのですが、その他の3つがかなり強力。
というか、このドローンの性能込みで難易度が決定されているようで、これを使いこなさなければクリアーが難しい感じといえば良いでしょうか。
この操作に慣れるまでが辛かったですが、慣れてからは、比較的楽に進んでいくことが出来ました。

ドローン操作に慣れてからというものは、戦闘面では、それほど困ること無く進めることが出来たので、バランスは丁度良い感じだったのではないでしょうか。

不満点を上げるなら、ライトが無い事と、目的地が分かりにくい事でしょうか。
ライトは、このゲームでは暗い場所に潜入するというシーンが何箇所かあるのですが、その時に、画面が暗すぎて何処に行けばよいのかが分からなくなることというのが何度かありました。
こういうゲームの場合、所持品の中にライトがあって、任意で点ける点けないが選べるゲームも多いと思うのですが、このゲームでは、それが無いように思えました。
(ライトの使用方法を、私が発見できなかっただけかもしれませんが…)
暗い場面は多くはなかったので、困る場面が多いという事はなかったのですが、目的地が分かりにくいという事との相乗効果で、結構ストレスが溜まってしまいました。

その他の不満点は、ストーリーがいきなり始まるところですかね。
このゲームはシリーズらしく、このゲームも前作の続編という位置づけなのですが、前作までのストーリーを知らない私にとっては、いきなり敵が攻め込んできたという印象しかありません。
物語の最初は、右も左も分からない子供時代から始まるので、その『何も知らない子供』という立ち位置で主人公が戦士にされていくという事で、物語を知らなくても大丈夫な様には出来ているのですが、それでも、全体像が把握できない為、おつかい感が拭えません。

続きであれば、最初に前作までのダイジェスト的なものを入れてくれていれば、親切でよかったのではないかと思ったりしましたね。

とは言っても不満はその程度で、現状で2000円以下で買えるという事を考えると、結構楽しめた作品でした。
主人公は紙装甲で、何発か撃たれれば死にますが、逆にいえば、この環境で普通にクリアーできるようになれば、他のFPSでも普通にクリアーできる立ち回りができると思います。

値段が安い割にはグラフィックが素晴らしいので、FPS初心者の方は、これを購入して練習するというのも良いかもしれませんね。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第14回 言葉の限界(2)

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
www.youtube.com

前回の放送では、言葉には限界があるということについて話してきました。
言葉の限界とは、自分の思い描いているイメージを、言葉を使って表現して、他人に伝えるには限界があるということですね。
これを、言語が違うという形でも表現しました。 言語が違うというのは、日本語と英語というように、使っている言語が違うという意味ではなく
同じ日本語同士でコミュニケーションをとっているにも関わらず、互いが通じ合わないという現象のことです。

では何故、同じ日本語通しなのに言葉が通じないのかというと、イデアの有無によるんじゃないかというところまで、前回話しました。
イデアというのは、このコンテンツの第2回3回辺りで話した、プラトンが主張した考え方ですね。
詳しくは、前の放送を聞いてもらいたいんですが、簡単に言うと、モノや概念の理想形やオリジナルというのはイデア界にしか存在せず、この世で、それらを表現しようとした場合、全てのものが模倣したものになってしまう。
更にいうなら、本物はイメージの世界であるイデア界にしか存在せず、この世にあるのは全て、偽物だという考え方です。
このイデアというのは、言い換えると『絶対的な価値観』という事になるので、イデアという価値観は最高のものが1つだけ存在する為、厳密に言うと、微妙に意味合いは異なってくるんですけれども、考え方としては似ているので
ここでは、頭のなかに有るイメージという意味合いで使っていきます。

過去の放送分を聴いてもらえばわかるのですが、このイデア論というのは、弟子のアリストテレスによって批判されます。
哲学というのは、多くの場合は既にある理論を批判することによって、新たな考え方というのが生まれる場合が多いので、主張された理論はいずれ批判されるわけですけれども、ここで注意して欲しいのは、批判と否定は違うということです。
最近の日本では、批判と否定が同一視されて、批判されることがイコール主張の否定になって、前の主張が間違っていたという受け止められ方がされがちです。
しかし、批判と否定は違うもので、批判されたからといって、その対象が間違っていて無価値なものというわけではありません。

というのも、これは、前回と今回のテーマである『言葉の限界』にもつながってくるんですが、そもそも、その本人が考えている主張を、誤解なく、完璧に理解することは出来ません。
何故なら、言葉には表現の限界があって、まず、言葉に変換した時点で、自分のイメージとはかけ離れたものになってしまうからです。
そのかけ離れたイメージを、言葉を通して相手は聞くわけですけれども、この言葉を正確に聞けるかどうかは、相手の読解力が関わってきます。
自分のイメージを空いてに伝えるためには、これほどの障害をくぐり抜けるわけですから、イメージそのものを完全に理解することは、結構、無茶な作業ともいえますよね。

その状態で批判されたとしても、批判された側は、自分のイメージが上手く伝わっていないと思うでしょうし、批判する側も、相手の主張は こう だろうという憶測で批判するわけなので、批判その物が見当違いの可能性も多いでしょう。
ですから、誤解なく、明らかな間違いというもので無い限りは、批判されたからといって、確実に間違っているともいえないわけですね。

という事で、本題に入っていきましょう。
言葉が通じないのは、イデアの有無についてと言いましたが、それを、前回 例に出した掃除の例で考えてみましょう。
前回の投稿をまだ聴いていない方は、先ずそちらから聴いてくださいね。

簡単に振り返ると、掃除の仕方を根本的に理解していない人に、『掃除をしてください。』と指示を出したとしても、床に掃除機をかけるだけで終了してしまって、きっちりと掃除を行ってくれない。
こういう人に対して、しっかりと掃除をしてもらおうと思うと、『窓を拭いてください。』『階段を吹いてください。』『トイレを掃除してください。』『ホコリを払ってください。』と全ての事に対して支持を出していかなければなりません。
でも、こうして細かい指示を一つ一つ出していくと、指示自体が膨大な量になってしまう為、言われた側は覚えられないという状態になってしまいます。

では何故、この様な現象が起こってしまうのでしょうか。
掃除を支持した際に、相手が掃除をうまくしてくれない場合というのは、大抵は、掃除を指示した側には、掃除というイデアがあって、支持を受けた側には、掃除のイデアが無いからなんです。
イデアを持つ人間が、イデアを持たない人間に対して、『このイデアの通りして』と支持したところで、イデアを持たない人間は、指示の意味がわからないので、行動を起こせないということです。

これはどういうことなのかを、順を追って考えていきましょう。
指示されている側というのは、『掃除機をかける前に、大きなゴミを拾う。』『整理整頓をする』『掃除機をかける』『拭き掃除をする』等の膨大な量の指示を一度に受ける為、それを覚えるのが大変ということになります。
また、この様な感じで具体的な内容を一つ一つ覚えて行動する場合、順序を間違えたり、忘れてやらなければならないことを抜かしてしまったりする事によって、二度手間が発生したりと、効率も落ちてしまいます。
でも指示した側は、そんな大量の指示をしている覚えはなく、指示した内容は最初から、たった1つの事で、『掃除してください。』という事だけなんです。

では何故、指示する側と、される側で、この様なギャップが生まれるのかというと、支持している側は、『既に掃除された完成形の部屋』というイデアを持っているんです。
このイデアを持つ人にとっての掃除というのは、部屋にある沢山の物を、その理想とする部屋に近づけていくだけなので、整理整頓も有るべき場所に有るべき物を配置していくだけなので、特に考える必要はありません。
また、自分の部屋の掃除の場合は、特に行為として『掃除』をしようと思わなくても、ものを使った時は使った場所に返せばよいし、疲れていてその辺に一時的に置いた場合は、気がついた時に、有るべきものを有るべきところに、自然に返します。
その為、意識的に整理整頓をすることもなく、部屋が散らかっていない状態をキープできる為、掃除という行為を意識して行う必要もありません。

また、部屋の理想形が常に頭にある人は、外出した際に、何か格好いいものや可愛いものを見つけた際も、それを買った際に置き場所が有るかどうかを、無意識に考えることが出来ます。
置き場所がない場合は、それを買うことが無い為、部屋に物が溢れるということもありませんし、どうしても欲しい場合は、既に部屋にある物のどれかを捨てる事も考えた上で、購入します。
つまり、既に掃除された完成形の部屋というイデア、理想形がある人間にとって、掃除というのはライフスタイルであって、特定の行動を指すわけではないんです。
物を使うために移動させたら、使い終わったら元の場所に返すといった、日頃から行う基本的な行動の積み重ねを無意識の内に行う事で、意識して何かを行うようなことでもないんです。

これに対して掃除の出来ない人は、頭のなかに、部屋の理想形というものが存在しないので、当然、整理整頓が生活の中に組み込まれることもありません。
その為、使ったものはその辺に捨て置きますし、服を脱いだ場合は脱ぎっぱなしになりますし、ゴミはゴミ箱に捨てずに、その辺りに置いておく事になります。
外出先で何か良いものを見つけた際は、当然、それを購入しますし、家に帰って置き場がない事に気づくと、それもまた、その辺りに捨て置くことになります。
結果として、部屋は荒れ放題になるんですが、それを掃除しろと言われたところで、どれを何処に片付ければ良いのかも分かりませんし、どれを捨てて良いのかも分かりません。
何をして良いのかわからないので、結局、整理整頓もしないまま、とりあえず掃除機をかけて『掃除は終わり!』と言い聞かせるしか無いんです。

こういう人に対して、『整理整頓は、有るべきとろこに、有るべきものを置けば良いだけでしょ。』と言ったところで、話が通じるはずがないですよね。

理解をより深める為に、もっと多くの方が体験を得ている例でも考えてみましょう。
例えば、虫に刺されるなどして、体の何処かの部分が痒くなったとします。この場合、多くの人は、特に考えることもなく、痒い部分を掻く人が多いのではないでしょうか。
そしてこの時、つまり体を掻く時に、体一つ一つの動きを意識するでしょうか。多くの人は、体の動きなどは意識しないままに、掻きたい部分を掻きたい様に掻くのではないでしょうか。
大抵の方は、体の何処がか痒いと思った際には、自然と体を動かして、目的の場所を掻くと思うのですが、そんなアナタの前に、『体が痒いんですが、どうしたら良いでしょう。』と質問してくる人が現れたとしたらどうでしょう。

あなたは、『痒い部分を掻けば良いんじゃないですか?』としか答えようがないですよね。
でもその人が、『痒い部分を掻くって、どうしたら良いんですか?』と質問してきたとしたら、どうでしょう。
『痒いところに手を持っていって、心ゆくまで掻いてください。』と答えるしか無いですよね。
でもその人が更に、『痒いところに手を持っていくって、どうしたら良いんですか?』と質問してきたとしたら?
あなたは、先ず、どの部分が痒いかを、その方に聞くところから始めなければなりません。

その人に、『何処が痒いんですか?』と質問した結果、首の後が痒いという答えが帰ってきたとしたら、次は、手を首の後に誘導しなければなりません。
どちらか一方の手を地面と水平になる位まで上げて、腕全体を少し外側に回した後、肘から先を曲げてみましょう。という感じで、手を痒い部分に誘導し、その部分に指を当ててもらって、上下左右に動かしてみてください。と、いちいち説明しないといけません。
その結果として、その質問をしてきた方が、首の後を掻くことに成功したとしましょう。
すると、その方は次に、『右足の こうの部分も痒いんですが、どうしたら良いんでしょう。』と質問してきたとします。

貴方は、『さっきと同じように、痒い部分に手を持っていって、掻けば良いんですよ。』と答え、質問者が、『さっきと一緒でいいんですね』と、手を首の後に持っていったとしたら?その間違いを訂正して、次は、足に手を持っていく方法を、一から説明しないといけません。
質問者は、貴方から色んな場所の掻き方を教えてもらった後、『痒い部分を掻くのって、物凄く覚えることが沢山あって大変ですね。』と言ってきたとしたらどう思うでしょう。
貴方はきっと、『覚えることなんて沢山無いですよ。 掻きたい部分に手を持っていって、掻けばよいだけ。覚えることは、その一つで十分ですよ。』と思うのではないでしょうか。

では何故、この様なギャップが生まれてしまうんでしょうか。
これは、体を掻くという行為を無意識レベル出来る人にとっては、呼吸をするのと同じぐらい簡単に出来ることなので、難しいことでも何でもない事なんです。
何故なら、無意識レベルで出来る人には、『体を掻く』という行為が体験として理解できていて、イメージとして確実に存在し、痒い場所が何処にあろうと、その法則に則って体を動かせば良い事を理解しているからです。
一方で、これが無意識に出来ない人、つまり、体験によって理解していない人にとっては、ケースによって、つまり、痒い場所が変わるたびに体の動かし方が変わるわけで、その動かし方を全て覚えようと思うと、ものすごい労力がかかってしまうということなんです。
確固たるイメージが無い為、法則に当てはめることも出来ず、痒い場所が変わる度に、体の動かし方を考えなければなりませんし、解らなければ教えを請わなければなりません。
ですが、ここで教えてもらえることは対処療法でしか無く、『体を掻く』という根本的なイメージではありません。
体を掻くという根本的なイメージを得るためには、体験として理解する領域にまで到達する必要が出てきます。

これは、全ての事について当てはまります。
例えば、彫刻家のミケランジェロは、彫刻は石の塊の中に完成形として既に存在し、ただ埋まっているだけなので、それを掘り出すだけで良いといったことを言っていますよね。
彫刻を彫るという事を体験として理解している人間にとっては、彫刻を制作するとは、既に完成品が存在していて、それが発泡スチロールのような物に包まれているようなイメージで、それを木の道具を使って掘り出すだけの作業なんでしょう。
完成形としての彫刻と、周りを包んでいるだけの物体には明確な違いが有るので、掘ってはいけない部分に差し掛かると体が勝手に手を緩めるし、掘っていい部分では勢い良く不純物を削る。
設計図なんてものは必要ないし、考える必要もなく、ただ、完成形として存在する石像を掘り返すだけの作業でしか無いんでしょう。

しかし、彫刻を彫るというイメージを体験として理解していない私の様な一般人には、まず、彼が何を言っているのかが理解できません。
そんな彼に教えを請うた場合は、彼は、普段意識もしないような基本的なことから話していくことになります。
まるで、体の掻き方を知らない人と同じように、『まず、手を水平まで上げてみましょうか。』といった感じで、イチから丁寧に教えてくれたとしても、それは根本的なイメージを培う為のものではなく、目の前にある1体を完成させるためだけの対処療法でしかありません。
石の形や大きさが変わってしまえば、また、イチから教えを請わなければなりません。
私が本当の意味で、ミケランジェロの発言を理解しようと思うのであれば、先ず、彼が立っている場所まで到達する必要がでてきます。

つまり、石の塊の中に完成形が見える状態を、体験として知るということですね。
この、体験として知るという共通のイメージ、つまりは、イデアを共有する事で初めて、それを前提とした共通の言語で会話が出来るということなんです。
では、言葉の伝達だけでそのレベルに達することが出来るのかというと、それは出来ないんです。
仮に、それが可能だとするなら、彫刻を掘るという技術は、ミケランジェロが書いた彫刻に関する本や言動を まとめた本を読むだけで身につくことになります。
ですが、実際に私達の生活を振り返ってみて、どうでしょう。本を読むだけで、何らかの能力が身につくことなんて、ほぼ無いですよね。
能力を身につけるためには、何らかの実践経験を積んでいって、体験として知って初めて、身につきますよね。

東洋哲学が重視するのは、この、体験として知るという事なんです。
体験としてイメージを理解したものを、言葉に変換すると、当然のように、矛盾が起こってしまいます。でも、イメージさえしっかりとしていれば、言葉による矛盾が起こる事は、特に問題はないんです。

その一方で西洋哲学は、言葉や論理による理解を重要視します。
つまり、言葉を使った論理に矛盾が有れば、その部分について批判されるということですね。
これは、ソクラテスが自身の主張である無知の知を理解してもらうために、色んな人に議論をふっかけては揚げ足を取って、『貴方は何も知らないじゃないですか』と言って回った事が影響しているんだとは思うんですけども…

でも、前回と今回で語っている通り、言葉というのは、前提となるイメージを共有していないと通じ合えない、かなり不完全なものですよね。
史上最強の哲学入門 の東洋の哲人たち という本の最後には、言葉の不完全さを説明するために、現代の哲学者の言葉が引用されていますので、その部分を読んでみたいと思います。

『生まれたときから目が見えない人に、空の青さを伝えるとき何て言えばいいんだ? こんな簡単なことさえ言葉に出来ない』
これは、本の中で現代の哲学者として紹介されている、江頭2:50さんの言葉ですが、まさに、その通りですよね。
言葉が、そこまで完全であるなら、生まれた時から目の見えない、つまり、色を知らない人にも空の青さを伝えられるはずですけれども、言葉というのは、そんなものも伝えられない道具なんですよ。

この、空の青さを真理に置き換えて、盲目の人というのを悟っていない人に置き換えれば、悟りを言葉で伝えることが如何に難しいかが理解できると思います。
この様に、真理というのは言葉では伝えられるようなものではない!としたのが、東洋哲学なんですね。
で、言葉については、今後も度々語っていくことになると思うので、今回はこの辺りにして、次回からは、仏教について触れていきたいと思います。

初対面でも積極的に大声で威嚇 『アッパー系コミュ障』とは?

今回は、アッパー系コミュ障という、私が最近になって知った言葉について書いていきます。
コミュ障というのをテーマとして取り扱うわけですが、この様な投稿をすると、『お前自身はどうなんだ?』という意見も当然予測されますので、最初に書いておくと、私自身が軽いダウナー系コミュ障を患っています。

ダウナー系というのは、意味合いとしてはアッパー系の逆で、人とコミュニケーションを取るのが面倒くさいとか、人と話す際には心臓がバクバクして冷静になれないといった、今までコミュ障として扱われていた症状のことです。
私自身は、他人と話す際に心臓がバクバクして話せないという程ではありませんが、基本的には一人行動が多いですし、興味を持たない人から話しかけられたとしても、話を打ち切ったりするような人間なので、普通ではないといっておきましょう。
まぁ、何を持って普通というのかという問題もありますけどね。

という事で、本題に入っていきましょう。
アッパー系コミュ障という単語を知ったのは、私自身が、そんな感じの人に遭遇したからです。
以降、多少愚痴っぽくなってしまいますが、その点はお許し下さい。

私は、趣味でスポーツジムに通っていて、その日も、いつもと同じように体を動かすためにジムに生きました。
フリーウエイトゾーンに行き、空いている器具を使おうとすると、後ろの方から、いきなり罵声が飛んできました。
その人の主張によると、その器具の向う側にある鏡を見ながらトレーニングしていたらしいのですが、私がその器具を使うと鏡が見えないということで、大声で威嚇してきたといった感じです。

まぁ、鏡を見ながらトレーニングをすると効果が上がるという話もありますし、その行為自体は理解できますが、フリーウエイトゾーンは、基本的に鏡張りなので、自分が少し角度を変えるだけで鏡を見ながら行うことが出来るわけです。
しかし、その人物は、その器具の向う側にある鏡を観たかったのでしょう。 いきなり大声を出して威嚇してきました。
私は、冒頭でも書きましたが、興味のない人とのコミュニケーションを嫌う為、その人から距離を取るためにも、その器具を使うのを諦めました。

すると、大声で威嚇してきた人間は、『喋れへんのか コラ!!』と言い出したので、面倒くさくなって、適当に『すいませんね』と言ってその場を離れました。
その後も、『お前はジムのマナー知らんのか!』とか色んなことを言っていましたが、私が通ってきた今までのジムのマナーでは
・一人で複数の器具を専有しないでください。
・自分が使用していない器具は、他の人が使える状態にしてください
・一人で長時間の器具の占領は止めてください
といったマナーはありましたが、空いている器具を使うのに、そのエリアの人全てに許可を取らなければならないというマナーはなかったので、当然、その人が勝手に決めたマナーなんて知るはずがありません。
でも、反論すると面倒くさいことになる為、特に反論すること無く、適当にあしらいました。

では、この大声で威嚇してきたオッサンは、ルールを厳格に守っている、しっかりとした人間なのかというと、実はそうでもありません。
この人は、腹筋をしてからベンチ台を使いたかったのか、腹筋を終えた直後に時分がスムーズにベンチを使うため、腹筋をしている間はベンチ台に荷物をおくという、使ってない器具を占領するというマナー違反を平然としている。

また、この日、偶然、そのオッサンとトレーニングが終わる時間が似たような時間になり、風呂に入って出るタイミングが重なったのですが、そのオッサンは、浴場から出た際に体を拭かず、びしょ濡れのまま更衣室に向かっていきました。
風呂エリアから出る扉には、『他のお客様の迷惑になる為、更衣室に向かう際は、体を拭いてから向かってください』という注意書きが書いてあるにも関わらずです。

つまりこのオッサンは、自分で勝手に作ったルールは他人に押し付けたいが、客同士が快適に過ごせる為に、施設が決めたルールには従わない人間なんです。
そして、気に入らないことがあると大声を出して威嚇し、他人を馬鹿にするという行動を取っているわけです。
ちなみに、このオッサンですが、私は2年程ジムに通っていますが、トレーニングの時間帯が合わないせいか、5~6回ぐらいしか観たことがないのですが、その人物を見かける度に、毎回違う誰かを大声で威嚇してました。

この時、思ったんです。『これって、コミュ障の一種なんじゃないか?』と…

この手のタイプの人間は、社会人では比較的少なくなっていきますが、中学・高校時代には、一定数存在していましたよね。
そう、不良・ヤンキーと呼ばれる類の人達です。

この人達って、『ナメられたら負け』というよく分からない価値観がある為なのか、それとも、強さを誇示するぐらいしか存在価値が見いだせないのか、基本群れて、少人数の自分よりも弱そうな人達を見つけては、大声で威嚇してますよね。
中には、奇抜なファッションをする事で、見た目でも威嚇し、自ら疎外される方向に突き進んでいます。
コミュニケーションの一発目で威嚇し、見た目で威嚇することで、周りの人間から避けられる…

これって、見方を変えれば、完全にコミュニケーション障害ですよね。
そんなわけで、早速グーグル先生に聴いてみました。

しかし私の予想に反し、『不良 コミュ障』ってな感じで検索しても、『不良はコミュニケーション能力の塊!』みたいな記事がトップに来て、不良やヤンキーはリア充として語られている場合が多い…
これは、単に私の感性がおかしいだけで、彼らの方が普通なのか?と疑問を持ちはじめた頃。一つの言葉を見つけました。

それが、『アッパー系コミュ障』
聴く耳を持たない(片方しか)
詳しくは、はてなキーワードなどに書かれているのですが、転載すると

・他人に対して無頓着・無自覚
・そのため人やものを貶すことに躊躇がない
・自分に無意識の自信を持っている
・相手が認めるまで何度も主張を繰り返す
・上記の言動による相手への不快感などの影響を想像できない
・そのため周囲が好きなものでも気にせず堂々と貶す
・他人との距離感を読まずに主張をし続ける
・声が大きい
・外野のマナーにはうるさい
・これらの症状に対する指摘に対しては非を認めない
・一方で不足の指摘自体はすることは求める、ただし聞かない
・自分本位なので相手にも自分と同じように主張することを求める
・周りと会話が噛み合っていなくとも気にせず盛り上がる
・同じアッパー系との相性は良いので集団を形成できるため、コミュ障の自覚がない

・・・ まんま、私が実体験として遭遇したオッサンや、不良・ヤンキーの特徴を捉えてますね。
そういえば、これは聴いた話なのですが、成人式などで暴れているヤンキーですが、自分達が認めた人間以外が暴れだすと、制裁を加えるという自分達ルールが存在するようです。
自分達は、いままで散々、ルールを破ってきたにも関わらず、自分達で創ったルールは徹底させ、暴力を背景に強制させるというのは、アッパー系コミュ障の特徴に見事に合致しますね。

では、この様な人たちに、万一遭遇してしまったとしたら、どうしたら良いのか。
これは、私が取った行動が正しいようで、基本的には、まず距離を取り、こちらに話しかける口実をなくした状態で、徹底的に無視をするという以外無いようです。
何故なら、この手のコミュ障は、コミュニケーションをとる手段がケンカしか無い為、言い争いなどに発展してしまうと、向こう側としてはコミュニケーションが取れていると錯覚して、嬉しい。むしろ向こうの思う壺だったりするからです。

私の近所には、この項目に当てはまる反社会勢力の方が住んでいるのですが、この様な行動を長年続けた結果、近所の人間が誰も喋らなくなり、孤独になり過ぎた結果起こした行動が、投網を持参した状態で警察署に聴き、『今から、あの川で投網をしてくるから!』と宣言。そして、近所にある投網漁禁止の川に行き投網をして警察に捕まるという行為を繰り返しています。
何故、こんなにも無意味な行動をするのかというと、自分に興味をもってくれる人間が、警察ぐらいしかいないからです。
しかし、冷静になってよくよく考えてみると、警察もその人物に興味をもっているわけではなく、犯罪予告をされてしまったら、捕まえなければならない義務が発生するから、業務の一環として行っているだけなんですけれどもね。
非常に悲しいですよね。 私なら、自殺しているかもしれません。

この様な感じで、地域のコミュニティーから完全に疎外されてしまった人間は、他人に迷惑をかける事でしか自分を認識してもらえない為、せっせと嫌がらせをするのでしょう。
その行為自体が、コミュニティーから疎外される一番の要因なんですが、そこまで考えられる頭はないですし、行動を改めたとして、コミュニティーに受け入れてもらえるには相当な時間がかかるわけですが、その時間を耐える根気も無いでしょうからね。
この投稿を読まれている方は、ネットに接続出来ているでしょうから、ネット界隈の話で例えると、Twitterで投稿した際に、FF外から来ていきなりケンカ売るといったクソリプ飛ばしてくる層が、このカテゴリーに入るんでしょう。

もっとも、ここまで極端な人は少数で、多くのヤンキーや不良と呼ばれる人達は、社会経験を摘むことで丸くなり、マイルドヤンキーの方向に向かうか、更に進んで普通の価値観を身につけるんでしょうけどね。

もし、この投稿を読んで、自身の行動に思い当たる部分があるのであれば、出来るだけ早い段階で、治すように努力したほうが良いと思います。
だって、そのまま突き進めば孤独死確定ですから。

【ゲーム紹介】 バットマン アーカムナイト

今月は、東京ゲームショウが開催されるということで、PS storeで、その記念セールが1ヶ月程にわたって開催されていました。
対象商品の多くが、50%以上の割引となっていてるセール。
このセール対象に、前から少しだけ気になっていた商品があったので、早速購入してみました。

購入したのは、『バットマン アーカムナイト スペシャルエディション』
元の値段が3600円程度だった為、セールで1800円程度の買物。映画一本分の値段で30時間とか遊べるわけですから、結構オトクな感じですよね。


      

この作品は、バットマンアーカム3部作の最終章のようで、前作からの続きとなるようです。
曖昧な書き方をしてしまったのは、私自身がシリーズをプレイするのが、この作品が初めてだからです。

という事で早速プレイ、バットマンといえば宿敵はジョーカー。
酷いことをやりまくっている割には、どこか憎めない道化師の犯罪者がライバルなわけですが、どうやらこのシリーズでは、前回までの物語でジョーカーを倒していたらしく、その火葬シーンから始まります。
その後、一応の平和を取り戻したかに見えたゴッサムシティですが、ヴィラン(悪役)の一人である、スケアクロウが起こしたテロ事件によって、大騒ぎとなります。

そして、この犯行は今回限りのものではなく、始まりの狼煙でしか無い事を知った市民たちは、ゴッサムシティから一斉に逃げ出し、街はヴィラン達によって選挙されてしまったというのが今回のお話。
オープニングの時点で一般市民が全員、街から逃げ出す為、街に残っているのは悪人のみ。
この状況は逆にいえば、バットマンがどんなに大暴れしたところで、一般市民には迷惑がかからない状態とも言えますね。

そんな街の中を自由に駆け巡り、敵を倒していくのが、今作の内容です。

冒頭でも書きましたが、私はこのシリーズは今回が初めてなのですが、前作から比べるとマップが大幅に広くなっているらしく、その移動のために、今回からはバットモービルという戦車に変形できる車が登場します。
この乗り物を駆使して、犯罪者を追い詰め、無法地帯となったゴッサムシティの治安を回復をしていく。
街には犯罪者しか残ってないので、バットモービルで轢いてしまっても大丈夫。
またこの車は、人に接触すると電気ショックを与えて吹き飛ばす為、どんなに拘束で接触しても死なずに気絶するという優れもの。

アクションの方でも、バットマンは不殺を貫いている為、殺傷能力のある銃などは持っておらず、基本的には殴って敵を倒します。
倒した敵は、後に警察が回収しているらしく、刑務所を訪れると、最初は誰もいなかった留置所に、ドンドンと人が溢れて賑やかになっていく様子が見れたりします。
こんな設定の為、アクションは好きだけど、敵を殺したくない!って方にはもってこいのゲームかもしれませんね。

その他のこのゲームの魅力としては、映画やコミックの中でしか感じることができなかったゴッサムティーが、箱庭の形で完全に再現されているところでしょうかね。
オープンワールド形式のゲームの為、基本的には何処に行くのも自由。
バットモービルで駆け巡っても良いですし、グライダーで空を飛部ことも出来たりします。

ゲームのシステムとしては、イベント戦闘やクエストをクリアーする毎に経験値が貰えて、バットマン自体がレベルアップする仕組みで、その際に貰えるポイントを振り分けることで、自身を強化していきます。
体力をアップしたり、防弾性能を上げたり、ガジェットを強化したり、バットモービルの性能を上げたりなどですね。
どのスキルを上げるのかは自由になっているので、時分の好きなようにバットマンをカスタマイズできますし、何を上げるかによって戦略も変わってきたりするので、その辺りのことを考えるのがメインの楽しみ方となっています。

実際にプレイしてみた感想としては、映画を観ているような感じで、結構楽しめましたね。
戦闘などを少し行うと、映画のようなイベントシーンが挟まるため、時分が映画の主人公になったような感覚を味わえます。

難易度的には、メインストーリーで困るという事は少なく、ちょっとした謎解きも、攻略サイトなどを観ること無くクリアーできる感じで、良いバランスだったと思います。
バトルの方も、結構失敗して死ぬことが多かったですが、メインストーリー重視でサブクエストがほぼクリアーできていない弱い状態でも、ゴリ押しでなんとかなるレベルの難易度だったので、これも良いと思いました。

ただ、このゲーム。真エンディングを見ようと思うと、途端に難易度が急上昇してしまうのが難点ですね。
このゲームですが、消防士救出や道路封鎖、武器輸送車破壊といったサブクエストがあるのですが、これらの難易度が途中から急に上がりだします。
とはいっても、スキルポイントを惜しまず振っていき、バットマンをかなり強化すれば、これらのクリアーは、まだ楽な方でしょう。

一番面倒くさいのが、リドラートロフィーの収集です。
オープンワールド系の作品でありがちなのが、マップ中に隠されているアイテムを集めろという感じのトロフィー関連。
MAPを細かいところまで一生懸命創ったスタッフからしてみれば、色んな所を観て欲しいと思うのか、様々なところにアイテムを隠して、それらを全て取るという実績が有ることは珍しくありません。
ただ、殆どのゲームの場合は、トロフィーという実績が貰えるだけで、ゲーム本編には何の影響もないことがほとんどです。

しかしこのゲームでは、このリドラートロフィーと呼ばれるものを全て集めることが、真エンディングの条件だったりします。
このトロフィー収集も、単純にアイテムを取ればよいのかといえばそうではなく、いちいちミニゲームをクリアーしていく必要が有ります。
個数は覚えていませんが、調べた所、総数で243個も有る様子。

攻略サイトを読んだところ、youtubeなどで有る場所やとり方を調べた上で、7時間以上かかったという報告まである、かなり面倒くさいものなのですが、真エンディングを観る為には必須という、結構きつい条件だったりします。
私の場合は、あまりの面倒臭さの為、youtubeで検索して動画だけ観てしまいましたが…
この辺りのバランスのとり方は、どうなんだと首を傾げたくなる感じですね。

と、最後に悪口になってしまったのですが、総評すると、1800円で購入した割には、かなり楽しめたというのが本音です。
少し前の作品ということも有り、廉価版も出てるでしょうし、その中古も出てるでしょうから、中古屋で購入すると同じような金額で入手出来るかもしれませんし、見つけたら購入してみるというのも有りだと思います。
まぁ、4000円の価値が無いというわけでもないので、新品で購入しても損をするというわけでもないと思いますが。

ただ、注意点として少し書いておくと、基本的にはキャラゲーなので、バットマンを全く知らない人にとっては、楽しめない可能性もあると思います。
全く知らない人は、Netflixなどの動画サイトで、ダークナイト3部作を観ておくと、おなじみのヴィランなども知れて、一層楽しめると思いますね。
バットマン好きの人にとっては、買いの一度だと思います。

【ゲーム紹介】 Gravity Days2

今回の投稿は、久しぶりのゲーム紹介&感想ブログです。
紹介する作品は、Gravity Days2です。


簡単にゲーム内容を書きますと、重力アクションという、ちょっと変わったアクションゲームとなっています。
大きなジャンルでいうと、一応、オープンワールドということになるんでしょうかね。

割りと大きめのマップが用意されていて、その中を自由に動き回ることが出来るんですが、普通のオープンワールドのように、歩いたり車移動をするわけではなく、重力操作によって動きます。
重力操作とは何なのかというと、一度ボタンを押すと、主人公が無重力状態となり、もう一度ボタンを押すと、画面の中心部分に向かって落下していきます。
この落下時に、Xボタンを押すと落下速度が増し、無重力ボタンを押すとその場で停止して無重力状態となります。

この独特のアクションの為か、普通のオープンワールドは平面的な箱庭が多いですが、このゲームでは縦方向に長かったり、街自体が浮遊島って感じで空に浮かんでいるという設定なので、縦方向に街が重なっていたりもします。
上下左右に広がる街を、重力操作で自由に落下して飛び回れるのが楽しいゲームとなっています。

この作品ですが、発売自体は今年(2017年)の1月で、今が9月なので結構前の作品となります。
私自身は、発売直後に購入したのですが、クリアーしたのはごく最近という事で、随分と放置していたことになりますね。

そんなに放置をしていた作品ということもあり、このブログを読まれている方は、『そんなに面白くないのでは?』と思われる方も少なからずいらっしゃるかもしれませんね。
クリアーした結果から言いますと、後から振り返ると非常に面白い作品でした。

この作品、タイトルに2とついているので、同タイトル作品の続編という形で発売されたわけですが、前作が、非常に中途半端な形で終了していたんですよね。
ですが、今回は完結編と銘打っている為、前回 放置されていた謎がやっと解明されたわけですが、そのストーリーが単純に面白かった為、結果から見ると面白いという感想になるんですけれどもね。
私は、ここ最近、余り作品を見て感情が動くという事が減ってきたわけですが、この作品のエンディングでは、久しぶりに結構、泣かされました。
その後も数日は、この作品のエンディングについて考えさせられましたし、プレイして良かったかどうかと聞かれれば、良かったと答えられる作品ですね。

では、何故、クリアーまでにこんなに時間がかかってしまったのでしょうか。
これは、やりこみ要素が凄くて、単純に時間がかかったというわけではなく、私自身の環境と、ゲームの作りの問題ですね。
私の問題としては、この2をプレイする直前に、前作の1をプレイしてクリアーしたんですよ。

というのも、私は`PS plus の会員で、毎月、フリープレイでゲームソフトを手にすることが出来るのですが、2の発売発表があった時点で、1の方がフリープレイで配信されたんですよ。
私はこのゲームを、ダウンロードだけして寝かしておいて、数カ月経ってからプレイしたので、クリアータイミングが2の発売と重なったんですね。
そして、2をプレイしたんですが…

確かに、前作から比べると進化している部分や改善している部分が非常に多く、快適にプレイ出来るようにはなっているんですが、基本的にはやることが前回と同じような感じで、プレイ体験としての新鮮さがイマイチだったんですよね。
マップは、前回のマップに加えて同程度の広さのマップが追加されている為、2倍になっているんですが、その2倍のマップで行うことが一緒。
基本的には、新しい街を見つけては、その街を飛び回って『ジェム』という経験値の代わりとなる縫製機のようなものを集めまくって、自身を強化。
その為、1と2を連続してプレイしていた私にとっては、単純作業の繰り返しで退屈に感じてしまったんですよね。

そんなわけで、最初の大きな街に到達した時点で放置をしてしまっていた為、クリアーが遅くなってしまったというわけです。

こんな感じでスタートしたゲームなのですが、先程も書いた通り、ストーリー自体はそれなりに楽しめるので、ストーリーメインでプレイをすると、結構面白いと思います。
ただ、操作性やマップの作りが良いかといえば、個人的には駄目な印象。
というか、このせいで、私は長時間放置することになってしまいました。

メインとなる重力操作なのですが、確かに、ゲームを始めた当初は面白いと思える要素でした。
しかし、ほぼ全ての移動が重力操作になる為、ゲームが中盤に差し掛かる頃には飽きが来ます。
私の場合は、1をクリアー直後に2を始めたため、重力移動に新鮮味を感じなかった為、『またか』という印象が強かったですね。

そしてマップですが、PS4専用タイトルということで、グラフィックは格段に上昇してはいますが、他のオープンワールドのように、街を散歩やドライブだけする為にゲームをしようと思えるような作りにはなっていない。
島が点在しているようなマップで、島を行き来するだけで数十秒、体感で1分ぐらいxボタンを押しっぱなしで放置のような事が頻繁に起こります。

また、移動の大半を重力移動に頼っているせいか、地上を歩いて移動する際の操作性が非常に悪い。
重力移動があるから、普通に歩くことがないから良いか!と思いきや、クエストで頻繁に重力操作を禁止される為、操作性が悪いアクションを矯正させられるとい事が頻繁に起こる。
その上、カメラワークも良いとはいえない。というのも、重力操作が移動の基本になっていて、重力操作によって方向性を失わせるような感覚を味あわせたいためか、カメラが変な動きをする。
この様な感じで、普通の操作が結構ストレスとなる。

…と、ここまで結構、悪口を書いてきたわけですが、冒頭にも書いた通り、ストーリーは良いです。
主人公の、少し抜けている性格も、終盤に近づくと愛らしくなってきますし、ラストはその性格があって始めて感動できるような内容になっています。
これは、映画などで2時間の尺で見せられたとしても、それ程、心を揺さぶられることは無いのでしょうが、長期間プレイ体験を通してキャラクターに愛着を持たせることで心を動かす様になっている為、ゲームならではという感じで良いです。

ただ、ストーリーに関しても一つ言わせてもらうと、1の続きで、感動のラストというのはオマケ要素となっていることです。
これは、1をやらずに2だけをやっている人に配慮しているからなのかもしれませんけどね。
これ以降、少しネタバレになる為、自力でラストまで行きたい人は、読まないでください。



このゲームのメインストーリーですが、エピソード1~20まで存在するのですが、1で謎の部分とされていた設定の謎を解くのは、エピソード21~26となっています。
エピソードの最後は20なの?26なの?と疑問に思われる方もいらっしゃるでしょうが、本当の最後は26なんですが、エピソード20をクリアーした時点で短めのエンドロールが流れるんです。
その後、何の説明もないまま、クリア後の世界って感じで自宅前に放り出されるんです。
そこから手順をこなしていくと、エピソード21が新たに始まるという設定。。

その為か、エピソード20までクリアーしたところで『全然、完結編じゃないじゃん!』って怒り出す人もチラホラ見かけるという始末。
しかし、26までクリアーすると、それなりに納得できるエンディングになり、今度は本気の長いエンドロールが流れるんですよね。
正直、26までクリアーした自分としては、物語を見事に完結させていて、尚且つ、感動も出来たので良かったという印象ですが、20までしかプレイしていない人にとっては、結構不満がある作りになっています。

若干、文句が多くなった感想にはなりますが、今だと中古で安めで買えると思いますし、PS storeでも頻繁にセールを行っているので、割引で購入するのであれば、結構楽しめる作品となっています。
世界観も、重力と時間何かが関係していますし、登場人物のセリフも意味深なものが多かったりと、楽しめる要素は多いですしね。
深く考えようと思えば、いくらでも深く考えられそうなところも、個人的には大好きな部分でしたしね。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第13回 言葉の限界(1)

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
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前回までの東洋哲学の放送で、ブラフマンという宇宙の根本原理や、人それぞれが持つ『私』という概念、個人の根本原理である、アートマンについて考えていきました。
そして、宇宙の根本原理と個人の根本原理が同じであることを、体験として知る事が梵我一如という考えだという事について説明してきました。

で…今回の内容なんですが、前回の最後では、仏教について考えていくといっていましたが、その前に、東洋哲学で重要視している『体験によって知る』ということについて、考えていこうと思います。
これは、結論からいってしまうと、言葉や理論というのが不完全なもので、それをもって理解しようと思っても矛盾が生じてしまうからなんです。
なので、イメージによる理解や、それを元にした直感を重んじるということになるんでしょうね。

という事で、本題に入っていきましょう。
単純に、『知る』『知っている』または、『理解する』という状態ですが、日本語で言葉として伝えると、『知る』とか『理解する』としか、言いようのないもので、こう言うしか無い状態になるわけですが
知る・理解するというのには、様々な段階が有るんですよ。
これらの段階を知るために、先ず、様々な『知る』ということについて考えていきます。

まず、知るというのは、誰にでも行うことが出来ます。というのも、知っている人に聴いたり、本やネットの記事を読むだけで、物事を知ることが出来るからなんですね。
では、これらの、聞いたり読んだりする経験によって知ることは、体験によって知る事になるのかというと、そうでは無いんです。
それは、ただ知っているだけで、体験として理解している事にはならないんです。

では、どのようなものが、体験によって知るということなんでしょうか。
少し前の放送の、東洋哲学と西洋哲学の違いという回では、体験によって知るという状態を、自転車に乗る行為に例えましたので、復習のためにもう一度、自転車に乗る例で考えてみましょう。

自転車に乗ることが出来ない人間は、最初、自転車に転ばずに乗る方法を知りません。
その状態で、自転車に乗る方法を知るためには、実際に自転車に乗ることの出来る人間に、教えて貰う必要が有ります。
そして、実際に行動を起こして聴いてみると、『自転車にのる為には、一定以上のスピードを出す必要があるから、思い切ってペダルを踏み込むことが重要だよ』と教えてくれたとします。
この状態で、教えを請うた人間は、自転車の乗り方を知ったことになります。

では、知ったからといって、その知識を得た人間は、その時点で自転車に乗れるんでしょうか。
運動神経の良い人などは乗れるかもしれませんが、多くの人は、乗ることが出来ません。
じゃぁ、なんで乗ることが出来ないのでしょうか。 乗れる人に聞いて知識は持っているはずなので、その通り実行すれば 乗れるはずですよね。
でも乗れないのは、人から聞いて知識を得た人間は、記憶として知識を得ているだけなので、他の人から『自転車に乗るコツを教えて。』と聞かれれば、先程教えてもらったことを復唱することは出来るんですが
それを体験として理解していないので、乗ることは出来ないんですよ。

例えば、この知識を持っているだけの人が、いざ自転車に乗ろうと思った場合には、様々なことを考えます。
乗れる人に教えてもらったのは、『スピード出せば安定するので、思い切って踏み込むこと』ということなんですけれども、実際に実行しようとすると、殆どの場合は出来ないんです。
何故なら、この人は、『ゆっくりの状態でもコントロールが難しいのに、スピードを出すと、操作がより難しくなるのに違いない。その上、もし転んだ場合、スピードが出た分だけ大きな怪我をするんじゃないか。 』
こんなことを考えてしまって、なかなか、実行することが出来ないんです。
結果として、実際に乗りこなすためには、それなりの練習期間が必要となります。

では、何故こんな事が起こるのでしょうか。
この練習している人物は、実際に自転車に乗れる人間に、その方法を教えて貰うことによって、自転車にのるために必要な知識は得ていますよね。
後は、これを実行すれば良いだけなんですが、実際には実行することが出来ない。
これは、教えてもらった知識を、本当の意味で理解できていないから。つまり、体験として理解できていないからなんですね。

では、この人物が本当の意味で、自転車の乗り方を理解する場合は、どうしたら良いかというと、体験として、実際に乗りこなす以外にはないんです。
実際に力強くペダルを踏み込むことで、自転車が安定することを体験を通して実感するしか、理解する道は無いんです。
逆にいえば、この体験をする前の自分というのは、教えてもらったことに対して、心の何処かで教えを信用していなかったとも、本当の意味で理解していなかったともいえますよね。

そして、ここからが、知識や理解、体験として理解するという部分の難しいところなんですが、この人物が練習によって自転車に乗れるようになったとして、自分以外の他の乗れない人から『自転車の乗り方を教えて。』と教えを請われた場合
この人は、『自転車は一定速度以上を出すと安定するから、思い切って力強く踏み込むだけだよ。』としか、答えようがないんです。

でも、このセリフというのは、自分がまだ自転車に乗るという体験ができていない状態で、乗れる人間に乗り方を教えてもらった状態の時に、つまり、乗れないけれども他人から聴いて、知識だけ知っている状態の時に、誰かに尋ねられたとしても、同じ答えが出来ますよね。
つまり、体験として理解していても、体験としては理解が出来てなくて、知識だけを知っている状態の時でも、他人から問われた時には、同じ様な答えしか発言できないということなんです。
ここに、言葉の限界というものが有るんですよね。

つまり、相手が本当に体験として理解できているのか、本当は体験としては理解できておらず、知識として知っているのかというのは、その人間を外側から見ている人間には、見分けがつかないですし
仮に見分けがついたとしても、体験したイメージを、言葉を通して理解することも伝えることも出来ないということなんです。

身近な、その他の例で考えてみると、これを聴いている皆さんの年齢がどれぐらいかは分かりませんけれども、人生のうちで、教える立場になった事がある方も多いと思います。
例えば、職場や学校の部活などで後輩が入ってきたときだとか、子供に対してものを教えるときだとか、様々なところで、教える機会というのが有ると思います。
この際に、自分が教えた内容が相手に伝わっていないという経験をした方って、結構多いんじゃないでしょうかね。

例えば、相手が明らかな間違いをしているので、次から同じ様な間違いを起こさないためにも、言って聞かせようとするとかですね。
でも、日本で育って、同じ日本語を話しているはずの人間に、日本語で注意をしているはずなのに、話が通じない場合というのが、結構有りますよね。
少しシチュエーションは違いますが、ここでいっていることは、そういうことなんです。 先程も言いましたが、これが、言葉の限界なんでしょうね。

私の経験した例で話すと、私も社会人として働いていますし、立場の関係上、指示を出さなければならないことって、結構有るんですね。
で、私が働いている業種は、閑散期と繁忙期が割とはっきりしているので、閑散期は仕事がなく、細々とした仕事と掃除ぐらいしかすることがない事も多いんです。
この閑散期は、私は、技術を必要とする細々とした仕事を片付けたりするんですが、技術が無くて、する仕事がない人には、『掃除をしておいて』と指示をだすんです。
まぁ、この時期ぐらいしか本格的な掃除というのが出来なかったりしますからね。

でも、その指示を受けた人は、やらないんですよ。 というか、本人的にはやっているつもりなんですが、実際にやってる行動は、散らかしているだけなんですね。
もう少し具体的にいうと、忙しい時期でもする掃除というものが有ります。その際の掃除というのは、作業場の床に掃除機をかけるだけなんですね。
その人に対して、『いまする仕事がないから、掃除をしておいて』というと、作業場の床に掃除機をかけるという5分ぐらいの作業だけを行って、後は、床に座って休憩をし続けるわけです。
そこで、『忙しい時期にする掃除と、暇でやることがないときにする掃除は、違いますよね。』と注意して、もう一度、『掃除をしておいて』と指示を出しても、特に行動を起こさないんですよ。

では、何故こんな事が起こるのかというと、指示を受けた人は、掃除をするという事が、どういう事かということを、本当の意味で理解できていないからなんですね。
そこで私は、『掃除とはどういうことなんですか?』と質問します。人間は、相手がどの様な考えをしているのかを知るためには、言葉によるコミュニケーションを取る以外の選択肢がないので、相手が理解できていないと思うのであれば、理解度を知るためにも、質問しなければなりませんよね。
そうすると、その従業員からは、『汚いところを綺麗にすることです。』と答えが返ってくるわけです。
この答えは正しくて、私はこう返されると、言葉で何も言い返すことが出来ないわけですよ。 というのも、掃除にそれ以上の理解は必要ないからです。汚いところを見つけて、綺麗にするだけ。それが掃除なんです。

言葉のやり取りとしては、この従業員は、私の指示も理解していますし、掃除の意味も理解しています。
なので、その支持に従ってもらわないと困るわけですけれども、掃除をしないんですよ。では何故、支持された行動を取らないのでしょうか。
答えは簡単で、その従業員は、どの状態が汚れているのか、そして、どのような状態にするのが綺麗になった状態なのかというのが、理解できていないからなんですよ。
だから、その従業員の認識としては、掃除というのは、忙しい時期でも毎日行っていた、作業場の床を掃除機がけする事とイコールになっていて、そこから先の思考というのが無いんです。
その従業員にとっては、汚い場所というのは イコール 作業場の床で、そこを5分間、掃除機をかければ、キレイな空間が出来ると思っていて、そこに疑いを持っていないんですね。

ですから、この言葉のやり取りを、それぞれの認識としてみてみると、私の主観としては、部屋全体を見渡して、整理されていないところは整理して、ゴミを見つけたら拾って、掃除機をかけて、拭き掃除をして…といった感じの事を、まとめて行ってください。
つまりは、部屋の汚いところを見つけて、掃除をしてください。と言っているわけですが、聞いている側の従業員は、部屋の汚いところは作業場の床だけで、その床は、掃除機を5分かければ完璧にきれいになると思い込んでいるんですね。
だから、部屋の汚いところを見つけて、掃除をしてください。と指示をすると、それを聴いた従業員は、作業場の床を5分掃除機がけをして、全作業は終了したとして、休憩するわけですよ。
仮に床にゴミが落ちていたとしても、そのゴミを避けるように掃除機がけをしますし、動かせる荷物が置いてある場合、それを動かして掃除機をかけることもないんです。
ただただ、床に掃除機をかけるだけで、掃除は終了なんです。

ですから… 先程も言いましたけれども、同じに日本語を使ってコミュニケーションを取っているつもりなんですが、実際には、そもそも両者が使用している言語は違うものなので、コミュニケーションはとれていなかったということなんです。
なので、私がこの従業員に掃除を行って貰う場合、全ての箇所について、どの様に作業をしないといけないかを、いちいち支持しないといけないんですね。
床を掃除する場合には、ゴミは拾って掃除機をかけて、移動出来る荷物がある場合には、それを移動させて掃除機をかける。
移動させて掃除機をかけた後は、移動させたものを元の位置に戻すというのも、言わなければなりません。これを言わないと、動かしっぱなしで余計に散らかってしまうという状態になってしまうんでね。

床の掃除が終わったら、置いてある機械のホコリを払うとか、トイレ掃除をするとか、窓を拭く…といった感じで、全てのことに対して言わなければ、やってもらえないんですね。
で、こういう風に、やるべき事を全て言葉で伝えていくと、次に、別の問題が出てくるんです。
それは、聴いている側にとって、そんなに沢山、覚えられないという問題ですね。

確かに、一つ一つを覚えていこうと思うと、膨大な量になると思います。
閑散期の大掃除なんて、やりだしたら、それこそ幾らでも やるべきところを見つけられるもので、5分で終わるようなものでも無いですよね。
それを全て言葉で伝えようと思うと、それこそ、膨大な量になってしまいます。

しかし、実際にこちらが伝えていることは、たった1つのことなんですよ。
それは、『掃除をしてください。』って事で、その意味は、『汚いところを綺麗にする』という意味でしか無いものですよね。
そして、それを聴いた相手は、しっかりと言葉として聴き、その意味を理解しているんです。にも関わらず、意思疎通が出来ないんです。
これは、先程から言っている通り、同じ日本語を話しているにも関わらず、同じ言語を話していないから、意思疎通が出来ない状態になっているわけです。
では、同じ日本語なのにもかかわらず、何故、言語が変わってしまうのかというと、『掃除をする。』という言葉を、知識として知っているか、体験として理解しているかの違いなんです。

それでは、体験として理解するというのはどういうことなのかというと、今まで勉強してきた事に置き換えると… まぁ、厳密に言うと違うんですが、プラトンイデアという考え方が近くて、それを持っているかどうかという事になるんだと思います。
つまり、掃除というイデアを持っているかどうかという事になるのではないか?ということですね。
このイデアというのは、第2回3回辺りの過去の放送で話していますので、まだ聴いておられない方は、そちらを参考にしてください。

ということで次回は、体験をイデアに置き換えて、もう少し掘り下げて、言葉というものについて考えていこうと思います。

人手不足倒産?求人増加はアベノミクスの成果なのか。

最近、人手不足倒産という言葉をよく聞くようになりました。
また、アベノミクスの大成功で求人が大幅に増えて、もう直ぐ完全雇用になっちゃう!なんて話も聞かれるように。

数字しか見てないお偉いさん方や政府の人には、世の中がそのように映っているんでしょうが、現場で働いて経済を肌で感じている私としては、この話に違和感しか感じません。
という事で今回は、人手不足について考えていきます。

個人的に・・・というか、人手不足の原因については10年以上前からいわれていたことですが、今起こっている人手不足は、単純に企業の採用担当が無能だっただけで、景気が良いわけでもアベノミクスの影響でもありませんよね。
では、10年以上前から、労働市場でどのような事が言われてきたのかという事について、振り返って考えていきましょう。

まず、日本というのは基本的には社員をクビにすることが出来ません。
クビにする為には、結構なハードルがあり、社員に余程の非がない限りは首にはなりません。
日本は、戦後の焼け野原からの復興や、生産拠点がアメリカ等から日本に移ったこともあり、高度成長期を迎えました。
その頃は、需要過多からの慢性的な人手不足だったせいもあって、終身雇用制だった為、そもそも、教育を終えた社員をクビにする必要が無かったのでしょう。
この終身雇用も美化されて語られていますが、基本的には供給不足が前提となって生まれた制度です。
供給不足の社会の場合は物が足りないわけですから、人を解雇する理由もない。また、スキルを身に着けて生産性が上がれば、それだけ利益を生み出すわけですから、会社に余裕が出てくる。
せっかく育てた社員が他社に引き抜かれたら、堪ったものではないので、それを阻止する為に給料を上げる。終身雇用制とは、当時は理にかなった制度で、経営者が人格者とかそういったものではありません。

そんな状態が続いて迎えたのが、バブル景気です。
戦後からの長い高度成長期で人口が増え、また、大家族から核家族化が進んだことによって、人々は住む為の家を建てる土地を求めました。
日本は国土面積が狭く、その上、大半が山岳地の為、平地の需要は強く、需給関係から価格は上昇し続けました。
バブル景気は、この『土地の価値が下がらない』という不動産神話を背景に起こりました。
不動産価格は上昇しまくり、不動産の買い占めの為に資金需要が大幅に増加し、貸出の為の金がなくなった銀行は、高い預金金利で一般からお金を集めました。
銀行や郵便局に預ければ、株などのリスキーな事を一切すること無く、元本保証で10年で資金が倍になる程の高金利時代。

これは、仮に、1000万円を預ければ、最初の10年で2000万になり、次の10年で4000万になり、次の10年で8000万になり、次の10年で1億6000万になる。
最初の1000万円が40年後には1億6000万になり、そこまで膨れ上がった元金は、毎年、1300万程度の利息収入が得られる状態。
つまり、20代である程度、節制した生活をして大きな金額を貯金すれば、後は収入を全額使ったとしても、退職後には金利だけで1000万円超えの生活が出来たという事。
この当時は、今ではブラックな運送業で必死に頑張ると3~4年で1000万円程度は余裕で貯まるといわれていた時代。 体力のある若い時代を数年捧げるだけで、定年後には金利だけで1000万。それに年金を加えたら、月に100万程度使える余裕がある生活が送れたわけです。

また、子供が出来たとしても、負担は殆どかからないのがこの時期。
一番カネがかかると言われている大学も、子供が一人暮らしをする為のマンションを買い与えれば、子供が大学を卒業した頃にはマンション価格が上昇していて、マンションの売却益によって大学の授業料や生活費が回収できて、上手く行けばお金が余ると言われていた時期。
何も考えずに、行き当たりばったりで生きていても何とかなったのが、高度成長期からバブルにかけての時期。

こんな状態なわけですから、当然、消費意欲も旺盛になり、お金がどうでも良い事にドンドン使われた。
思いつきの事業でも失敗するほうが難しかったでしょうし、経営能力ゼロの馬鹿でも、それなりに事業をやっていけたのがバブル時代。
作ったものは作っただけ売れるので、企業は大量の人を欲しがり、人材獲得合戦へと突入しました。

今では、エントリーシートだけで何十社も送り、面接までこぎつけるのも一苦労…なんて言われている就職戦線ですが、バブル期の就職というのは非常に楽。
まず、会社はいくらでも人を確保したいと思っているので、超が付く程の売り手市場。その為、面接に行くだけで交通費が1万貰えたそうです。
面接を受けに行けば、その場で合格が貰えるのですが、せっかく確保した人材が他の企業に取られると困る為、企業が考え出したのが、内定者の拉致。

拉致といっても非合法なものではなく、グアムなどのリゾート地に、研修という名目で就活期間が終わるまで遊んでもらうというもの。
リゾートから返ってきたら、就職活動期間は終了していて、就職先も決定しているというわけです。

正に、人生、イージーモード。

しかし、こんな馬鹿な時期がそうそう長く続くはずはありません。
バブルは崩壊し、状況は一変してしまいます。
作ったものは売れず、物が余るようになり、企業は在庫の処分や生産設備の活用の為に、商品を安売りせざるを得ません。
バブルによって、本来の価値以上の金額が付けられていた土地価格は一本調子で下落している為、不動産関連の資金需要も無くなった上、今まで貸していた不動産向け貸付が焦げ付き始めて不良債権化し始めます。

資金需要がなくなった上、銀行の自己資本が傷つき始めた為、銀行は一般からの預入を減らそうと、預かり金利を引き下げ始めました。
これによって、退職後の金利生活を夢見ていた人の夢は脆くも崩れ去り、消費は更に落ち込む事になります。

この様な状態になると、企業はバブル期に何も考えずに大量に採用してしまった、不必要な人材を必要以上に大量に抱えることになります。
そしてその人材は、高度成長期から続く終身雇用制によって、気軽に解雇することが出来ない。
既に雇った人間の首を切れないのであれば、企業が社員数の帳尻を合わせる方法は一つしかありません。

それは、新規雇用者数を減らすという方法です。
バブル期に抱えてしまった人材は、定年まで辞めさせる事が出来ないので、新人を取らないことで人件費を抑えようとしたんです。
この行動によって生まれたのが、就職氷河期です。
約10年以上にわたって雇い止めが行われた結果、企業内の年齢層に空洞部分が生まれてしまいました。

そして、ここ最近になり、バブル時代に大量採用した人間が、一気に定年になり始めました。
こうなると、企業は当然のようにに人材不足となります。
その足りない人数を、また、企業間で奪い合っているのが現状です。

つまり、アベノミクスは全く関係がなく、単純に大手企業の採用担当が無能なので起こっている現象というわけです。
仮に、アベノミクスが成功し、経済が発展したことによって人材募集が活発になっているのであれば、人件費は上昇していなくては辻褄がありません。
しかし、起業の募集をみると、人材が足りないと言われている業界でも、正社員で年収200万以下の求人なんてザラ。
フルタイムで働いて貧困層になってしまうような求人で、『経済成長のお陰!アベノミクス様々!!』なんて言われても、説得力が全く無いんですけどね。

ちなみにこんな事は、就職氷河期に突入した序盤から言われていたことです。バブル世代の大量退職時に人が足りなくなるなんてことはね。
にも関わらず、今になって焦って求人。 しかも給料は払わない。 こんなので人が集まるわけがありませんよね。

この現状を何とかする為に、国は動くことになります。
その方法とは、年金支給開始年齢の引き上げと、定年年齢の引き上げ。この策により、企業は5年の猶予が得られ、国は年金支給額を抑えられる可能性が出てきました。
正にwin win ですが、庶民の私達にとっては、とばっちりも良いところですよね。

今の人手不足は、基本、こんな流れで起こっているので、潰れたくないんなら、内部留保貯めずに人件費に当てて、就職氷河期時代に冷遇した人達に土下座して頼めば良いだけなんですが、それすらしたくないのであれば、、勝手に潰れろというのが個人的な意見だったりします。

観光立国とは何なんだろうか

先日のことですが、夜の経済ニューースを見ていると、国は訪日客を1.8倍にする計画が有るらしく、観光シーズン以外でも集客が出来るように、世界各地で行われている世界レベルの様々な会議を誘致する事に力を入れていると行った報道がされていました。
その中でも、特に注目を集めているのが京都で、観光都市としては上位なのにも関わらず、会議の開催が東京の半分以下ということで、より積極的に頑張っていくそうです。

では何故、様々な誘致活動を行ってまで、訪日外国人の数を1.8倍にまで増やしたいのでしょうか。
その理由としては、訪日外国人の消費額が多いことがあげられるそうです。
日本人が国内旅行をするよりも、外国人が日本に着たほうが、一日に消費する金額が高い。
どうせ客を相手にするのなら、単価の高い外国人を受け入れた方が効率が良いということのようです。

しかし私は、ここで一つの疑問が湧いてきます。
訪日外国人が増えて、本当に日本は盛り上がってるの?って事です。

というのも、私が住んでいる場所は京都です。
京都といえば、観光したい都市の世界ランキング上位に入る程の人気都市で、当然、街も観光産業に携わっている人が多くいるわけです。
そんな私も、観光産業に携わっているのですが、訪日外国人の割合が増えれば増えるほど、売上は下がっていますし、当然、収入も下がっているんですよね。

私は趣味で、週末に繁華街を訪れて呑みに行くこともあるのですが、そこで店主の話を聴いても、良い話は殆ど聞かない。
爆買いが話題になったときなどは、京都の有名な繁華街の木屋町通では、『店に入ったら、最低、一人1品は注文してください(TT)』といった感じの張り紙まで貼られるしまつ。

その他には、お土産物屋はドンドン潰れていってますし、取り扱う商品の量も減ってきている。
京都の大手お土産物メーカーは、毎年100億の売上があったのに、去年はそれが半減したという話も聴きました。
京都といえば八つ橋ですが、八ツ橋の売上も、今年だけで3割ぐらいは下がっていますし、その他のお土産物の定番として昔からあった五色豆は、今年、大手メーカーが廃業しました。

国のお偉いさん方は、何らかのデータに基づいて、外国人観光客を呼び込んでいるんでしょうが、実際に住んでいる立場の人間からすれば、外国人観光旅行者が訪れたところで、全く恩恵がない状態。
では何故、こんなにも、国と現場で感じている事に差があるんでしょうか。

という事で、外国人観光旅行者の消費について調べてみると、一つの表が出てきました。
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この表は、外国人観光旅行者が、どの分野に消費を行っているかを表したものですが、これを見て納得。
訪日外国人の支出傾向を観ると、全体的にほぼ全ての国の人が、支出額を減らしていることが分かります。
伸びているのはロシアとオーストラリアだけで、伸び率の大きいオーストラリアに焦点をあわせて見てみましょう。

一回あたりの旅行の総支出は、平均で24万円程度で平均宿泊日数が13泊。
この24万円の内、宿泊費に10万円使っていて、これを宿泊日数の13日で割ると、1泊当たり7700円ぐらいとなります。
そして交通費が4万円なので、合計で14万円。 この2つで、全体支出の6割となります。

飲食代は5万円なので、これを13日で割ると、一日あたり3846円。
オーストラリアの観光客といえば、長野や北海道にスキーにやって来るイメージが強いですが、シーズン時期の1泊7700円の宿で、2食出るとは思えないので、素泊まりと考えた場合、観光地で3食 外食して4000円未満というのは、結構、節約しているようにも思えます。
こうしてみると、外国人観光旅行客の1回の訪問あたりの支出が多いのは、比較的長期間滞在するから、宿泊代が跳ね上がる(1泊あたりの宿泊費は安い)、欧米からの訪問者の場合、頻繁に来れないから、一回の訪問で色々訪れようと、福岡・京都・大阪・東京など移動しまくるため、電車代で結構使うというのが主な理由ということが分かります。
全体を通して交通費が3~6万の間で推移しているのは、外国人限定の新幹線乗り放題サービスが関係しているのでしょう。
JAPAN RAIL PASSとは? | ジャパン・レール・パス | JAPAN RAIL PASS
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ちなみにこれは、支出が伸びているオーストラリアの例なので、支出がマイナスの国の場合は、もう少し渋いことになります。
一日あたりの宿泊費は5000円前後まで抑えられ、娯楽・サービス費用は半分から4分の一にまで下がります。
娯楽・サービス費用が下がるのは当然でしょう。先程も書きましたが、オーストラリア旅行客の多くは、冬に長野や北海道に行って、スキー・スノボなどのウィンタースポーツを行うために来日する場合が多い。
その一方、単純に観光で来る場合は、料金の発生する施設にはいかず、ただ散策して眺めて終りとなるわけですから、基本的にはお金は使わない。
全体の平均宿泊日数が10日で、娯楽・サービス費用が4725円という事は、1日あたりの娯楽費は500円以下ということで、本当に消費が行われていないことが分かります。

これを見て、納得。
京都というのは、観光スポットが離れている割には、電車がつながって無くて、観光しにくい土地だったりします。
その為、国内の修学旅行客などは、生徒を4人一組に分けてタクシーを1日チャーターして、ドライバーにガイド役をさせて観光名所を回ってもらったりするんですが、外国人観光旅行客はというと、基本的に移動は歩きかバスかレンタサイクル。長距離移動は新幹線の乗り放題サービスを利用。
極力金を使わない移動手段を選び、伏見稲荷大社など、拝観料の必要が無い観光地に行く。
風貌も、大きなリュックを背負ったバックパッカーみたいな人達ばかりで、富裕層が観光旅行に来ているという雰囲気が全く無い。

また、夜、BARに呑みに行っても、カップルで来て酒を頼むのは男性一人で、それを2人でまわし飲み。
その上、チェック後、チャージ料や消費税にイチャモンを付けて怒り出す客も一定割合でいる。(主に欧米系が多く、アジア人はそもそもBARで余り見ない)その中には、一人で切り盛りしているバーテンを2時間占領して散々接客をさせた上、『他の店に行くから案内しろ』という客も見たことが有ります。
文句が多い上に客単価が非常に少なく、その上、手間がかかる為、正直、来ないで欲しいと漏らす人も結構いたり。


では、買い物代はどうなのかというと、買い物に関しては、欧米などよりも東・東南アジア圏の人達の支出が目立つことが分かります。
中でも突出しているのが中国で、一回の旅行で12万円も買い物をしてくれていますし、台湾や韓国も、宿泊日数の割には買い物をしてくれていることが分かります。

ただ、この近隣の国の買い物というのも、そのまま鵜呑みに出来なかったりもするんですよね。
というのも、iPhoneの新作が発表された時に、中国人が物凄い行列を作り、一人で何台も購入したなんてニュースがありましたよね。
こんな感じで、近隣国の買い物というのは、転売ヤー仕入れも混じっている為、完全に鵜呑みにも出来ないんですよね。

ここで、『売れているんだから問題ないだろう!』という反論もあるんですが、この転売ヤー仕入れによる売上増加は、アッという間に無くなる可能性もあるから、信用出来ないんです。
というのも、近隣国からの訪日客の支出が軒並み大きなマイナスを記録しているのは、単純に転売ヤーが減ったからとも考えられるからです。
転売ヤーというのは、普通の人が買いにくい人気の高い商品を、いち早く仕入れることによって、利益を得ることが出来ます。
例えば、iPhoneが、中国でもネット経由で定価で買うことが出来るようになれば、わざわざ日本まで出かけてきて行列に並んで購入する人がいるでしょうか。

IT革命以降、情報技術はドンドン進んできているので、これを利用した様々な販売方法によって、転売ヤーを通さずに直接、企業が客に届けられるようになってきています。
つまり、アジア圏の買物代というのは、今後、大幅に下る可能性があるということ。

こんな感じで見てみると、『観光立国を目指す!』と言っている割には、観光地で働く人たちにお金が落ちていないことが分かります。
光都市と呼ばれる京都でこんなんだから、全国で見ると、観光産業はもっと酷い状況になってるんだと思います。
簡単に言うと今の日本は、治安が良くて安全で、カネを使わなくても観光できる、バックパッカーにとって良い国という感じになっているんでしょうね。
バックパッカー御用達の国といえば、観光客からボッタクるなんて事をして、他の国は潤っているのかもしれませんが、日本の場合は、それらの国に比べて元の物価が高いので、そんな事もしにくい。
その上、『お・も・て・な・し』で料金が発生しないことにも丁寧な対応を求められるわけで…

私の主観では、ドンドン疲弊していっているようにも見えます。
日本はこのまま観光立国を目指したほうが良いのか、真剣に考える必要があると思いますね。

理系人口が増えないのは何故なのか

ここ最近、『日本で理系が育たない。』という話をよく聞きます。
はじめに聞いたのが何年前だったのかは忘れたしたが、結構前から、この様なことは言われていたような気がします。
にも関わらず、何故、これが改善できないんでしょうか。原因は、何なんでしょうか。
ということで今回は、これらの事について考えていきます。

原因は非常に簡単で、理系は労力の割に儲からないからなんでしょう。
『原因は金だけ?』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、資本主義社会では、金は評価の全てです。
必要とされるから、評価されるから、資本主義社会では金が得られるのです。

逆にいえば、金が貰えないということは、評価もされていないし、必要とされていないという事。
必要とされていない分野に積極的に行こうと思うのは、余程、その分野が好きな人だけでしょう。
資本主義社会では、特定分野の人口を絶対値として増やしたいのであれば、儲かる環境を作るしかありません。
しかし、日本では何だかんだで、それが出来ていない。それが、理系離れが解消できない唯一の原因でしょう。

これを聴いて、『科学者も、それなりに給料がもらえるんじゃないの?』と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
確かに、現在は低所得者層が増えているので、大きな会社の科学者・研究者はそれなりに給料をもらっていると感じる方も多いかもしれません。
文系と理系で平均年収を比べると、理系のほうが高いというデータも多く有るので、平均値で観ると、理系は評価されていることになります。
しかし誤解の無いように書いておくと、ここでいう評価が低いというのは、平均年収とかそういうものではありません。

また、数字において平均値ほど信用できないものはありません。
例えば、年収100万円の人間が100人いたとします。その中に、年収1億人の人間を1人放り込めばどうなるでしょう。
101人の平均年収は、たった一人の富裕層によって、約2倍に引き上げられる事になります。
逆も同じで、極度の貧困層が一定割合存在すると、平均値は大幅に引き下げられることになります。

もう少し具体的に書いてみると、文系の給料は平均値は理系よりも低いが、桁外れの高所得者層がそれなりにいる。
ただ、その一方で、貧困層もそれ以上に多く、結果として平均値では文系の方が低い値になっている。
その一方で理系というのは、技術職的な側面が有る為、何も特技を持たない人間よりも、基本的には給料は高いんですが、桁外れの高所得者層は少なく、その一方で貧困層も少ない。
つまり、平均値の人が多い。

苦労した上で平均値よりも少し上ぐらいの給料をもらって、平穏に暮らしたいと思っている人は、理系の道を選ぶのが良いのかもしれません。
ですが、出世して平均値を大きく超える給料をもらいたいと思うのであれば、文系一択になってしまうのが、今の日本なんでしょう。

簡単にいえば、文系は上手く行けば、楽して一攫千金のチャンスが有るが、理系は苦労して平均所得より少し上という事。
もっと噛み砕いていえば、文系は夢が有るが、理系に夢は望めないということでしょうか。

これは、実際に世の中に出回っている商品を見てもわかりますよね。
例えば、ペットボトルに入った水素水を堂々と販売するなんて事は、理系には無理でしょう。
そもそも水素を口から取ったところで、ゲップやオナラで出てくだけですし、水素分子は小さいので、ペットボトルでは閉じ込められず、出ていくそうです。
つまり、科学的根拠はなんにもないわけですが、それで結構なお金が動いたりします。

水関連でいれば、水に『綺麗だよ』なんて言葉を投げかけると、水の分子がきれいになって、それを飲むと健康に良いなんて話もありましたよね。
それを鵜呑みにした教育環境の人が、その話を道徳の時間に教えたり、『綺麗だよ』と投げかけて出来た水で牛を育てる酪農家なんてもの登場しましたが、そんな事が理系の人に出来るでしょうか。
先ず無理でしょう。まともな神経を持った理系の人は、そんな非科学的なことを堂々と発言することは、恥ずかし過ぎて出来ないでしょう。

こういったことが出来るのは、科学的な知識がないからこそ、それを無視して背景にストーリーを作ることが出来る、文系の人だけでしょう。

その一方で理系はというと、中村さんという方が苦労して青色発光ダイオードを作ったら、『会社の金と設備を使って作ったんだから、会社のもんだよね。』と作ったものを取り上げてしまう。
その日亜化学工業という会社の行為にあまりにムカついて、日亜をやめてアメリカの別会社に再就職したら、日亜がアメリカの再就職先の会社に嫌がらせをしてくるしまつ。
その嫌がらせに耐えきれなくなった中村さんは、とうとう裁判を起こすという事態にまでなってしまった。
しかし日本のメディアは、日亜の嫌がらせ部分には触れず、『発明が成功した途端、今まで支えてくれていた会社をやめてアメリカに!』って感じの報道しかしない。
中村修二 ‐ 通信用語の基礎知識

青色発光ダイオードなんて世紀の大発明をした人ですらこんな扱いをされるわけですから、他の無名な科学者なんで、本当に飼い殺し状態なんでしょう。
その一方で文系は、先程も書いた通り、科学理論なんて無視して、聞こえの良いストーリーやベースさえ作ってしまえば、一攫千金が可能です。

この前も、ほぼ日手帳が上場しましたよね。
科学者が、試行錯誤をしながら理論や実験を繰り返す一方で、手帳のレイアウトで上場まで出来てしまうのが文系の凄いところです。
手帳が大ヒットして売れるだけでも濡れ手に粟状態なのに、創業者は株式上場に伴う株の売却益でも、ものすごい額を手にしたことでしょう。

本来、上場というのは、資金が必要な企業が株主を公募することによって返済不要の資金を得て、それを設備投資などに使って、更に成長するというのが目的で行われます。
キャッチコピーや手帳のレイアウトなんて、基本的には大掛かりな設備投資は必要ないので、上場目的は、株式売却による上場益以外はない。つまり、上場ゴールなんですが、創業者の方は、ここでも独自のストーリーを展開して、周りを納得させていましたよね。
そのストーリーは、自分がいなくなったとしても、会社が残るようにだそうです。 別に、上場しなくても会社は残りますよね。
でも、こんなストーリーを作って誤魔化すことが出来るのが、文系の強みです。

ただのバッグも、ストーリーを付けて、有名なロゴを付けるだけで、5万のものが150万になる。
LSDをキメながら、上から絵の具を垂らしただけの作品も、ストーリー次第で150億で売れる。
これらの文系の可能性を考えたら、今の社会で理系を選ぼうとは思えません。
だって、理系で同じぐらいの注目を浴びようと思ったら、ノーベル賞が必要ですから。。

ノーベル賞を取ることに比べたら、一つのストーリーで一発当てる方が、確立は遥かに高いでしょう。
本当に理系を増やしたいと思うのであれば、単純に助成金を出すといった短絡的なものではなく、理系が認められやすいように社会構造から変革させていく必要があると思うんですけどね。