だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 】第6回 西洋哲学 (5) 市民と奴隷 そして差別

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

doublebiceps.seesaa.net

前回は、アリストテレスの考える国という概念について考えていきました。
簡単に振り返ると、人間は、共同体を作らなければならない、というか、つくってしまう動物で、生活する上で、何かしらの共同体を作って生活しています。
そして、共同体を構成する人は、善を行う目的で生まれているので、その人達の集合体である共同体も、善を目指すために作られます。

ただ、人間がそれぞれ持っている善は、それぞれの価値観によってバラつきが有るので、それぞれの善の価値観を持って、話し合い、摺り合わせを行わなければなりません。
そうして生まれた善は、その団体のあらゆる善を含んでいるいます。
家族の善よりも、村の善の方が、より良いものですし、村の善よりも、国の善の方がより良い善ということですね。
つまり、共同体の最高段階である国家の善は、その中でも最も良い善となります。
その善を実行していくのが、国家の運営という事になります。

ただ、これだけを見ると、アリストテレスは、国家は皆で善を主張しあって決めていくという、国民主権で運営いくというイメージのように思えますが、実際には若干違います。
というのも、アリストテレスは奴隷と主人を明確に分けていて、奴隷に対しては政治の参加を認めていなかったからです。
つまり、知的階層と労働だけを行う、労働階層に分けていたということですね。

労働者と市民をきっちりと分けて、政治や裁判に関係することが出来るのは市民だけと主張しているので、結果的に、国のシステムに関われるのは、国全体の構成員のごく一部ということになります。

では、奴隷と市民をどの様に分けていたのかというと、理屈としては頭の良さで、実際には生まれによって決めていました。
もう少し説明すると、奴隷というのは、生まれの卑しさによって、奴隷となる。そして、逆に、生まれの良いものは、奴隷を支配する権利があると言っています。
この意味はそのままで、生まれた時点で、奴隷と市民は決定しているということなんですが、では何故、生まれによって決まっているのかというと、アリストテレスは、この世のあらゆるものは全て、目的を持って生まれてきているからとしています。

奴隷には、主人からの命令を理解して行動する程度の知能は有るけれども、自分で考える能力はない。
また、体も労働するように頑丈に出来ているので、奴隷は奴隷として主人に仕える目的で生まれてきている とするんですね。

これは簡単に言うと、頭の良さでカテゴリー分けをしていくという事なんですね。
アリストテレスは、あらゆるものは、目的があって生まれてきていると信じてました。
これは、人間だけでなく動物も同様で、理性を持たないとした動物は、当然、人間よりも下等な動物という位置づけをしていましたし、動物の中でも、躾をして人間の命令を聴く能力のある動物は 家畜として、獣よりマシと考えるんです。
なので、農耕の手伝いをする牛も、その他の雑用をする奴隷も、共に『生命のある道具』として、知識をもっている者が、所有することが当然と考えるんです。

結構レイシスト的で、現代では考え自体を受け付けない人も増えてきているとは思うんですが
この考えというのは、時代を超えて、最近まで影響を与えていましたし、現在も一部の人が影響を受けていたりするんです。

例えば、数年前に、日本で行われているイルカ漁が、活動家の人達に目をつけられて、反対のメッセージを込めた映画が作られましたよね。
あの映画の主演女優が来日した際に、インタビュアーが『牛や豚は殺して食べてもいいのに、何故、イルカは駄目なんですか?』という質問を投げかけたんですね。 
その時に、その女優は『牛や豚は、神様が家畜としてこの世にもたらしたものなので、イルカと同列に並べる事がおかしい。』と反論をしているんですね。

イルカと同じように反対運動が起こっている、クジラも同じですよね。
つい最近までは、クジラは知能が高いから、獲っては駄目で、魚類は頭が悪いから食べても良いって感じでしたよね。

これを言い換えると、豚や牛は、人間に食べられる目的で、家畜として生まれてきたんだから、食べても大丈夫。でも、クジラやイルカが生まれてきた目的は別だし、頭も良いから守るべきって事ですよね。
これは、アリストテレスが主張した、生まれながらにして家畜と奴隷が決まっている。 頭が良いものが、上に立つべきという主張と同じ構造ですよ。

これは、私の偏見も入っているとは思いますが、こういうことを言い出す人達って、キリスト教圏の人が多いイメージなんですけれども、では何故、こんな主張になるのかというと
アリストテレスの主張というのは、アリストテレスの死後、1000年ぐらい経ってから、キリスト教に形を変えた形で取り込まれて、教義であったり、キリスト教の世界観を強化するために利用されるんです。
このことに関しては、別の機会に、もっと詳しくする予定なんで、今回は省略するんですが、こうした観点からみると、当時、隣人愛を訴えているキリスト教が、何故、黒人奴隷を肯定していたかがわかりますよね。

奴隷は人間じゃなくて、生きている道具として認識されていたからです。 人類としては、カウントして無かったんですね。道具であり、商品であり、所有物だったんです。

また、奴隷狩りなどを行って、積極的に黒人奴隷を集めていた時代というのは、時代的にも科学なども発達してきていたので、科学的なアプローチによって、奴隷を肯定しようという動きもあったようです。
その他には、言語・言葉ですよね。これらを使った刷り込みや、イメージの誘導等による印象操作ですね。

何故、この様な印象操作が必要だったかというと、先程も言いましたが、キリスト教は隣人愛を訴えている宗教です。
その為、キリスト教を信仰している人の中には、人間が人間を支配するのは、おかしいと考える人も当然いるわけですよ。
天国に行くために、欲望に負けずに、清く正しく生きていこうと思っている人も、たくさんいるわけですね。

そういう人達は、人間同士で上下関係を作って、辛い労働を強いるという事に、当然のように抵抗を持つわけで、奴隷制にも疑問を持つわけですよ。
また、その様な人達は少数ではなくて、結構な数はいるわけですよ。
この様な疑問を持つ人達を、半ば強引に納得させるためには、根拠が必要だったんでしょうね。
その根拠づくりのために、科学や言語、イメージを使った、一種の洗脳のようなことを行うんですね。

現在でもそうですけども、人間は、信用できなさそうなことであったとしても、科学的根拠なんてものを出されて説明されると、納得してしまいがちですよね。
それが例え、トンデモ科学だったとしても、それっぽい事を匂わせるだけで、信じてしまったりすることも有ります。
例えば、水にたいしてポジティブな事を話しかけると美味しくなって、『バカ』といったネガティブな言葉を話しかけると、まずくなったり汚れるなんて話を、信じてしまう人って一定数いますよね。

冷静に考えると、人間が発する言葉は人間が考えて生み出した言葉なので、水に理解できるはずもないですよね。
人間に犬やネコの鳴き声が理解できないのと同じ様に、水という生物ですら無いものに、理解は出来ないでしょう。
また、水に意識があるのかどうかも怪しいですし、仮に、意識があって人間の言葉が理解できたとして、水自体に言葉を聴いて変化する能力があるのかどうかも怪しいですよね。

で、この話を肯定するために、『言葉ではなくてイメージが伝わっている』という言い訳をすると、科学ではなくて一気にオカルト臭くなりますし
言葉そのものではなく、言葉は振動なので、一定の振動数を与えれば良いという科学よりの話にすると、水を良い方向に変化させる振動数は罵声を投げかける事なのかもしれないので、この理論の前提が崩れてしまいますよね。
この様に、冷静になって考えれば、とんでもない事だと分かることでも、科学っぽいことを出されると、思考停止して信じてしまう人達って、意外と多いんですね。
この心理を、利用するんですね。

具体的な例を何個か挙げると、例えば、IQテストという、知能を計るテストがありますけれども、テスト内容自体を人間が作る以上、結果を操作する事が可能なんですね。
具体的にいうと、白人の作った文化と社会に囲まれた環境で暮らしていると、高得点が取りやすく、黒人の文化の中で暮らしていると、点数が取りにくいテスト内容にするんです。

人間の認識というのは、育った環境などによって、変わってきますよね。
例えば、牛のフンで家を作る人達にとっては、牛の糞は大切な資源ですけれども、これを利用しない人間にとっては、ただの汚物でしか無いですよね。
これは、どちらかが優れていて、もう片方が劣っているということではなく、育った環境や文化の違いによって起こる、単なる認識の違いなんですけれども
こういった認識の差を利用して テストの問題を作ることで、点数を操作する事が出来るんです。

つまり、白人文化に慣れ親しんでいて、それが常識となっている人には正解を出しやすいけれども、白人文化と距離が離れている人には点数が取りにくい問題を出すことで、点数に偏りを付けるんです。
そして、白人の方がIQが高いことを証明できれば、科学的に黒人は劣っているという烙印を押せるわけで、堂々と道具扱い出来てしまうんです。

他には、人種ごとの骨格の違いなどを利用するとかですね。
黒人と白人と黄色人種とでは、頭蓋骨の形など、特徴が違いますよね。その特徴を利用して、頭のサイズの測り方を考案するんです。
白人の方が頭が大きくて、黒人の頭が小さい様な結果が出るような測り方ですね。
そして、そのデータを取って、統計的に白人の頭のほうが大きいことを提示して、『白人の方が頭が大きいので、当然、脳みそも大きい。 だから、白人の方が賢い。』という結論を出すんです。
後は、先ほどと同じですよね。 その疑似科学の結果を利用して、黒人を生きている道具として使うんです。
だから、よく、日本人は褒め言葉として『顔が小さいね』というけれども、外国の人の中には『顔が小さい』というと気分を悪くする人もいるから、言わない方が良い。って話がありますよね。

他に、もっと強力なのは、イメージや言語などを使った刷り込みですよね。
例えば、天使を思い浮かべてみてください。 イメージとして、白じゃないでしょうか。 逆に悪魔は、黒っぽいイメージが呼び起こされないですか?
もっと単純に、白と黒のイメージを比べてみてください。 白には、清潔感とか純真無垢といったプラスのイメージが呼び起こされる一方で、黒は、暗いとか、負のイメージを抱きがちですよね。
最近になって、黒人の人達が頑張って、ブラック・イズ・ビューティフルと掲げて、そのイメージを良い方向にしようと運動されたお陰で、黒にも格好が良いというイメージが定着してきましたけどね。

これは言葉もそうで、例えば、企業という言葉にブラックを付けてブラック企業にすると、つらそうなイメージが連想される一方で、ホワイト企業は、福利厚生がしっかりしていそうなイメージを受けますよね。
もっと、わかり易い例でいえば、有罪か無罪かを白か黒で表現しますよね。

言葉は、自分のイメージを他人に伝えるもので、イメージは感覚と直結しているんですけれども、そのレベルで差別的な感覚を刷り込むことで、自然と差別が行われるような状態に持っていってるんです。

ちょと、アリストテレスキリスト教批判が過ぎたようなので、一応、擁護もしておくと、別に、古代ギリシャ人やキリスト教徒だけが、差別をしていたというわけでもないです。
日本も、士農工商 エタ・非人 という身分制度がありましたし、今でも、収入や学歴など、形を変えた形で有ります。インドは今でもカースト制が有ります。 
欧米だけでなく、日本でもつい最近まで女性の選挙権はなかったですし、システムとしての差別は、どこの国でも有りましたし、今でもあります。

ただ、人種差別、その中でも黒人差別が今でもなくならない原因となったのは、アリストテレスという偉人が、それなりの理論で奴隷制度を強化してしまって
その後、その理論を更に歪曲させる形で、数百年もかけて宗教の教義にして、人々の間に常識として刷り込み
最終的には、科学 といっても根拠のない疑似科学なんですけれども、それで、これらのことを補強してしまったってことが、現在でも人種差別が長引いている原因なのかもしれないですね。

かなり長くなってしまったんですけれども、では何故、アリストテレスは、生まれながらにして奴隷となる人間がいると考えに至ったのかという事について話していこうと思うんですが
時間が長くなってきてしまったので、それは、また次回にしようと思います。

Rez infinite をプレイして感じるヒッピーっぽさ (3)

この投稿は、前回・前々回の続きとなっています。
まだ読まれていない方は、先ず、そちらからお読みください。
kimniy8.hatenablog.com
kimniy8.hatenablog.com
前回までで、ヒッピーについて私が理解している範囲のことを書いていきました。
今回はタイトル回収という事で、Rez infiniteをプレイして感じたヒッピー感について書いていきます。
最初に断っておきますが、私はこのゲームの開発の裏側などは一切知りません。ここで書く感想は、あくまでも、私がそう感じたという感想である事。
また、文中には、幻覚剤を投与したようなイメージといった表現が度々出てきますが、私自身は服用経験は一切なく、旅行記や体験記などを読んで、トリップ体験を知識として知っているだけなので、予めご了承ください。

Rez infiniteというゲームですが、私は公式サイトでストーリーなどを調べずに、まっさらの状態でプレイしたわけですが、プレイと同時に、サーバー空間に放り込まれたような感覚になりました。
このゲームのジャンルとしてはシューティングゲームなのですが、自機を動かす事は出来ずに、標準の方を動かして、敵をロックオンして撃っていくというスタイルのゲームです。
この、サイバー空間を舞台にしているという状態が、既にヒッピーっぽいですね。

前回の投稿でも書きましたが、ヒッピー文化で最も大きな影響を与えたと思われる、幻覚剤LSDの伝道師、ティモシー・リアリーは、晩年はコンピューターに可能性を見出し、没頭することになります。
ティモシー・リアリー - Wikipedia

コンピューターは、情報収集や分析といったものにも使えますが、LSDでトリップした際に観たビジョンというのを再現するためにも使えます。
言葉では到底伝えることが出来ない様な神秘的体験を伝えるためには、今までは、音楽や絵画といったものでしか表現できなかったものが、コンピューターの登場によって、より具体的にイメージの共有ができるようになりました。
また、動画と音楽とを合わせた表現なども出来る為、常識からの逸脱を目指すヒッピーが夢中になるのも頷けます。

また、先程紹介したティモシー・リアリーwikiを観て頂くと、サイバーパンクとの繋がりもみられます。
日本でサイバーパンクといえば、最近になって、また人気が出てきた『攻殻機動隊』がありますね。
この物語は、人間が脳を機械化し、電脳を装着することで、いつでもどこでもネットに接続できるようになった世界を舞台にしています。
原作の方では、ネット回線から他人の脳にダイブし、様々なアクションを起こそうとするハッカーに対し、攻撃を受ける側は、攻性防壁を展開し、侵入者を攻撃することで防御をするというシーンが頻繁に出てきます。
それでも防御ができない場合、幻覚剤などを使用して脳のイメージその物を変化させてしまうといった方法で防御したりするのですが、人のイメージに侵入し、それを阻止する為に幻覚剤で惑わせるという発想。
そして、自身の体をドンドン機械に置き換えていく事で沸き起こる哲学的な疑問をテーマにしている点は、幻覚剤による意識拡張によって、精神世界をどんどん掘り進めていったヒッピーたちと重なる部分がありますよね。

この世界観と、Rez infiniteのゲームの舞台も、結構、シンクロしているような気がします。
プレイヤーは、サイバー空間っぽいところに侵入し、ウイルスだったり攻性防壁っぽい何かと戦います。
基本的に自機を動かすことは出来ず、プレイヤーは流れに身を委ねる感じで漂いながら戦うことになるわけですが、単調な一本道のシューティングと思いきや、1つのステージが幾つかのステージで構成され、四角いキューブを取る度に、別のステージへと飛ばされる感覚を得ることが出来ます。
飛ばされた瞬間は、感覚そのものが揺さぶられるような感覚に襲われ、その感覚を重ねる度に、ゲーム内の空間との一体感が得られるような作りになっています。
空間が変わるごとにトリップが加速していくような感覚で、世界と自分との境界線が曖昧になっていき、最終的には世界と自分との一体感が得られるといった感じでしょうか。

もう少し具体的に書くと、このゲームは、スタート間もない時は、ほぼ無音状態から始まります。
そして、敵をロックんしたり、弾を打ったり、それによって敵が倒されたりすると、そのアクション毎に音が響き渡ります。
最初は、無音の中に寂しく響き渡る音なのですが、短く区切られたステージをつなぐ白いキューブを取る度に音は追加され、最終的にはコントローラーまで一定の間隔でビートを刻みだし、ボスに到達する頃には、自分自身もゲームの世界と完全に一体になって、体が揺れていることに気が付きます。

プレイヤーが起こす動作と音をリンクさせ、ステージが進む度にBGMが追加され、自分自身とゲームの世界とをシンクロさせる。
そして、細切れにされたステージ同士を結ぶ白いキューブを取る度に、激流に飲み込まれたように体が前後左右に押し流される感覚が、視覚として入ってくる。
これは、シラフで出来るトリップ体験なんだと思います。

次に、プレイヤーキャラクターである自機。
これは、パワーアップアイテムを一定数取る度にレベルアップし、敵が撃ち出す弾に当たるとレベルダウンするという設定になっています。
つまり、レベルアップすればする程耐久値が増え、余裕が生まれるというシステムですね。
このレベルアップの仕方が、ヒッピーを虜にした『禅』の思想っぽいんですよね。

自機は、あと1発当たれば死ぬという最低レベルの状態では、球状で表現されています。
そこからパワーアップする度に、徐々に人間ぽくなっていき、最終レベル1個手前では、自分の目の前にディスプレイを置き、座禅をして瞑想する菩薩の様な姿へと変化します。
そして最終進化を迎えると、また、最初の頃のような球状に戻ります。しかし完全に同じ姿ではなく、何かただならぬ雰囲気をまとった状態に。

これは、仏教でいう悟りを表現しているんだと思います。
仏教で言うところの悟りは、ものすごく簡単に言うと、『赤子の目で世の中を見る』というもの。
人は、生まれた当初は、何の知識もなく、故に、世界に何の境界線も引いていない。
これは、自分と世界、、そして宇宙に何一つ境界線を引いていないことを意味し、『一は全、全は一』『宇宙と自身とが一体となっている状態』で世界を観ているともいえます。

しかし人間は、成長する度に知識を得て、世界に対して境界線を引いていきます。
まず、自分と世界の境界線を引くことで自分を認識し、世界の中に親という存在がいることを認識することで、世界と親とを境界線で区切ります。
その親には、父と母がいてと、成長する度にドンドン境界線を引いていき、その度に、『言葉』を覚えます。
知識とは、特定の物を区別する為の言葉を覚えることで、境界線を引き続けること。

しかし『真理』『悟り』とは、その様な境界線は無いことを体験によって知ることです。
宇宙と自分とが完全に混ざりあうという神秘体験、『悟り』を得たものは、再び、何の境界線も引かれていない、『何も無い』『無』の状態で世の中を見ることが出来る。
つまりは、『赤子の目で世の中を見る』事と同じになり、最初に戻る。
ただ、赤子と違うのは、知識を得た上で悟りを得ているので、その視点は尊いものであるということ。

この一連の流れは、先程紹介した、自機のパワーアップとシンクロしますよね。

そして、PSVR版で追加されたという、『Area X』

このステージは、背景、敵、自機を含めて全てのものが粒子で構成されています。
ステージ全体の背景は黒で、そこに無数の粒子が浮かんでいる様は、どう見ても宇宙。

そして、その宇宙を構成している自分も、粒子が人のように集まって振る舞っているようにみえるだけで、大きな目線から見ると、自分も背景を構成している一つの粒子と変わらない。
これは、先程も書いた、全宇宙との一体感を表現しているかのような表現にも見えます。

そして、ステージが進んでいくと、遠くの方におぼろげに、粒子でできた女性っぽいシルエットが浮かびます。
プレイヤーは、この女性っぽいシルエットのハートの部分に向かって、アクションを起こし続けます。
すると、最初は表情すら全く見えなかった『カノジョ』の姿が徐々にはっきりとしていき、最終的には、微笑んでいるかのような表情まで読み取れるようになります。

これはまるで、ヒッピーが散々訴えかけてきた、『Love&Peace』を表現しているかのようですね。

このゲームは、合法的にトリップできるように計算されて作られているんじゃないかと思える程の、非日常体験を得ることが出来ます。
特に、VRとの親和性は凄まじいの一言。
私は昔に発売された当初はゲームの存在すら知らかなったような人間ですが、このゲームは、VR技術によって、完成したんじゃないかとすら思います。
とにかく、VRヴァージョンでのトリップ感が凄すぎます。

ゲームというのは、非日常的感覚を味わう為に行う行為だと思いますが、VRでプレイしたこのゲームは、本当に別の空間、とうか世界にトリップできたようで、非常に楽しめました。
値段も安いので、VRを持っている方は是非、トリップしてみてはいかがでしょうか。

Rez infinite をプレイして感じるヒッピーっぽさ (2)

この投稿は前回の続きとなっています。
前回の投稿をまだ読まれていない方は、先ずそちらから、お読みください。
kimniy8.hatenablog.com
Rezとヒッピーとの関係性をテーマにした投稿ですが、その為には先ず、ヒッピーの知識が不可欠ということで、今回はヒッピーの解説が中心となります。
Rezのプレイ体験とヒッピーの関係は、次の投稿で書く予定です。予め、ご了承ください。

反戦運動を機に立ち上がった市民は、あらゆるものに疑いの目を向け、常識を逸脱する為に、常識外とされていた、あらゆる文化を取り入れます。
その中でも、最も影響を与えたものは、LSDでしょう。

最初に断っておきますが、今回の投稿では、LSDに関する事が結構出てきます。
その中には、この薬物に対して肯定的とも取れる事を書く場合も有りますが、LSDは禁止薬物であるため、入手や摂取する事を勧めているわけではありません。
服用を間違えれば、精神病院行きになる可能性もありますし、そもそもが違法なので、使用することは止めましょう。

さて、このLSDという薬物ですが、1943年に幻覚剤としての効果が発見され、この薬物に対して米軍やCIAが興味をもつことで、研究が開始されます。

米軍の場合は、主に軍事利用。
特定地域を占領するためには、爆撃などが必要になるわけですが、その地域が生産拠点などの場合、爆撃で施設を破壊してしまうことは、そのまま損失につながってしまいます。
それなら、人の感覚を狂わせる薬物を噴霧して、その地域に住んでいる住人を一時的に戦闘不能状態にしてしまえば良い。
仮に、その一部の人間が精神病院行きになったとしても、爆撃して殺すよりかは遥かに人道的だし、人数的な被害も少数に抑えられる。
その上、敵が所有している施設を無傷で手に入れることが可能となれば、それをこちらが有効活用する事が可能になる為、戦略的にも優位に立てる。
こういった観点から、様々な薬物が研究対象になったのですが、LSDも対象として選ばれることになります。

CIAの場合は、当時、洗脳について非常に興味を持っていて、多くの予算を割いていました。
そんな時に発見されたLSDにCIAは飛びつき、専門機関などの協力を得て、研究・実験を行うことになります。
この作戦は人体実験のようなもので、多くの精神病患者を生み、死者まで出したということで批判を受けていたりします。
詳しい内容が知りたい方は、『MKウルトラ計画』で検索をかければ詳細が出てきます。
MKウルトラ計画 - Wikipedia

簡単に説明すると、CIAは情報収集期間であるため、様々な情報を常に欲しています。
その為に必要なのが、真実を聞き出す方法。つまりは尋問手段です。
しかし、敵国のスパイを捉えたとしても、スパイとして教育・訓練をされている人間が、そう簡単に口を割るはずもない。
そこで、精度の高い自白剤を得る為に白羽の矢が立ったのが、LSDというわけです。
尋問の際にLSDを投与して酩酊状態にしてしまえば、現実感が無いままに口を割るのではないかと実験は繰り返されるが、決め手が無いままに時は過ぎていく。
今度は逆に、自国のスパイが捕まった際にLSDを自分で服用すれば、酩酊状態になって情報を守れるのではと、逆の発想での使用法などを模索したりする。

とにかく、僅かかな量で、且つ、短期間で症状が現れ、無味無臭で水に溶け、紙などに染み込ませたものを舐めるだけでも効果が現れると利便性が高い為、使い方を色んな方面から模索するCIA。
その為に必要なのは、この幻覚剤の圧倒的なデータ。という事で、なりふり構わず実験が行われることになります。
最初こそは、LSDを投与する事を被験者に告知した上で投与していたCIAですが、徐々にタガが外れて、事前告知無しで無差別に投与を行うことになります。
例えば、朝出勤した際に、同僚が気を利かせてコーヒーを淹れて手渡してくれ、例を言ってコーヒーを一口くちに含んだが最後、トリップしてしまうという具合。
これはCIA職員内だけでなく、施設にゲストとして招き入れた人達にも行い、結果として、LSDによるバットトリップが原因で、死者まで出してしまうことになります。

その他に、この薬物に興味をいだいたのは、医療機関
幻覚剤による超現実的な体験は、精神病治療の分野で、比較的高い効果を発揮することに。

しかし、CIAのLSD実験によって死者まで出してしまった事が原因になったのか、国によるLSD研究は徐々に下火になっていくことになります。

そんな中、LSDは紆余曲折を経て、ティモシー・リアリーというハーバードの若手教授の元に渡ります。
この人物は、幻覚成分を含んだキノコの成分を摂取した際に、神秘的な体験を得たことによって魅力に取りつかれ、幻覚剤による人格変容の研究を積極的に行います。
そんな人物のもとに、幻覚剤LSDが渡ったのは、必然的なことだったのかもしれません。

このティモシー・リアリーの元でLSDは研究されることになり、効果が不安定で、時に兵器になり、時に自白剤、またある時は情報を守るための手段となり、精神病患者を救う薬にもなるこの薬物が、セッティングという一種の儀式を行うことで、効果を安定させる可能性がある事を見つけ出します。
そして、セッティングを行ってからLSDを服用する事で、比較的簡単に悟りを開く方法を見つけ出します。

悟りとは何なのかというと、仏教でいうところの真理。
人間という枠組みが音を立てて崩れだし、自分自身と宇宙との一体感をリアルな感覚、つまりは体験として感じ取る神秘体験です。
本来ならば、才能のある選ばれた人間のみが到達できる涅槃の境地に、幻覚剤を投与するだけで到達することが出来る。

皆で目指そう!ニルバーナ!

キリスト教が前提となっていた常識に疑問を持ち、そこから逸脱する事を目指していたヒッピーたちが、この神秘的な体験ができるドラッグを見逃すはずがありません。
この幻覚剤はヒッピーの間で流行し、薬剤投与による意識拡張は、ヒッピーと『禅』の思想とを強く結びつけることになります。
禅のルーツとなるのはインド。この頃から、インドはヒッピーたちの聖地になり、若者たちの間では、『自分探し』をする為にインドを旅する事がブームになります。
そして、禅の思想に没頭したビートルズは、その世界観を音楽に込め、音楽の世界に革命を起こします。

また、セッティングという儀式を経て薬物を投与するという方式は、古代のシャーマンを彷彿とさせる事で、ヒッピーたちはシャーマニズムも取り込みます。
この様な流れになってくると、当然のように、長らく弾圧されていた魔女・魔術なども見直されはじめ、その思想も取り込まれ始めます。

古代や一昔前の思想だけでなく、ヒッピー達は、コンピューターやサイバー空間といった新たな分野にも進出します。
3Dの世界は既にルールが出来上がっているため、全く新しいフロンティアを求めて旅立ったのかもしれません。
先ほど紹介したLSDの伝道師、ティモシー・リアリーも、晩年はコンピューターにどっぷり使っていたようです。
ヒッピーとコンピューターとの関係は、後に、ヒッピー出身のジョブズによってAppleが設立されることからも、その影響力がわかりますよね。

また、発達したコンピューター・テクノロジーは、映像や音楽と結びつき、新たなジャンルをも生み出します。
サイケデリック』や『アシッド』を関したアート・音楽は、幻覚剤によるトリップの感覚を表現するために生み出され、それらの音楽も様々な方面に影響を与えます。

映像・音楽、そして、皆がそれらを通して一体になるクラブの文化は、現代版の『サバト』といっても良いかもしれません。

現代では既に過去のものとなり、ヒッピーの存在すら知らない世代が成人を迎える様になってきていますが、皆がアップル製のiPhoneを持ち、ロックを聴き、クラブでトランスを聴きながら体を揺らす状態は、現代まで続いています。
そして、クラブミュージックなどに興味が無いような層は、派生したニューエイジが生み出した、ヨーガ・アロマテラピーアーユルヴェーダといったものを受け入れている状態になっています。
消えたかに見えたヒッピーたちが起こした火は、いまや皆が自然と受け入れる文化へと変化して浸透し、新たな常識となって息づいています。

この様なヒッピー文化と、Rez Infiniteが、どのような関係があるのか。
次回、私の100%の主観、独断と偏見で、書いていこうと思います。

【続く】

Rez infinite をプレイして感じるヒッピーっぽさ (1)

先日のことですが、Rez infinite というゲームソフトを購入しました。
このゲームは、ジャンルとしては音楽シューティングという部類のゲームで、最初は音楽がほぼ無い状態でスタートするのですが、敵に対して攻撃をしたり、敵を倒したりすると音が鳴り、最終的には壮大な音楽になるという感じのゲームです。
シューティングゲーム音ゲーを合わせたような感じのゲームと言えばよいのでしょうか。

ゲームとしては単純なもので、敵をロックオンして弾を撃つだけ。
ロックオンさえしてしまえば、弾が外れることも無く、自機を自由に動かすことが出来ないため、自機を動かして弾を避けるということも無ありません。
画面の敵をひたすらロックオンしていくスタイルなので、慣れれば誰でもクリアーできる感じの難易度のゲームになっています。

このゲームですが、元々は2001年に発売していたものを、PSVRが発売したタイミングで、新ステージを追加して再販したもので、新ステー以外は特に作り直しもしていない様子。
グラフィック的にもレトロな感じで、ここ最近の実写と見間違うようなグラフィックとは逆の方向性で作られている感じのゲームです。

このRez infiniteですが、とにかく、評価が高い。
発売されてからというもの、色んな所でタイトルは見聴きするのですが、正直、動画を見ているだけでは、何が凄いのかが全く分からない。
グラフィックは凄いとはいえないし、シューティングゲームとしての爽快感があるのかも疑問。
しかし、いくら考えてもわからないので、値段的にも3000円程度と高くなかった為、購入してみました。

その結果…
物凄かったです!
私は少し前から、ヒッピー文化について興味を持っていて、その辺りの事を偶に調べたりするのですが、このゲームは正に、ヒッピーの世界観をイメージとして伝えている感じがして、非常に興味深く、プレイ後はテンションが結構上ってしまいました。

という事で今回は、Rez infiniteをプレイして、何故、ヒッピーっぽいと思ったのかについて、書いていこうと思います。
一応、最初に書いておきますが、私は最近になってヒッピーについて軽く調べた程度なので、私の認識が間違っていたり、単なる知識不足のところも多いと思います。
その事を考慮した上で読んで頂けると幸いです。

ヒッピーという言葉は知っているけれども、具体的にどんなものなのかを知らない人達って、結構多いと思います。これを書いている私も、そんな人間の一人でした。
簡単に説明すると、ヒッピーというのは、1960年頃から始まった、自然と愛と平和とセックスと自由を掲げた運動に参加していた人達です。

では何故、こんな運動が起こったのか。
それは、欧米の文化を作り上げてきた、常識や宗教観といったものへの漠然とした不満が、大きな原因だったのでしょう。

欧米社会というのは、基本的にはキリスト教の考えがベースとなっている社会です。
神は、自分の姿に似せて人間を作ったと信じていたし、その人間の中でも、白人は特別な存在で、他の人種よりも優れていると信じていた。
異教徒は弾圧されて当然だし、有色人種は奴隷にして堂々を押し付けても問題はなかった。
神に似せて作られた人間は、自らが暮らしやすいように、自然を支配し、自分達の思うように作り変えて力を示すことが当然だと思っていました。

この様な考えに対し、当然、世界観に乗っかる形で力を示していた人達もいたわけですが、『おかしい』疑問に思う人達も当然のように出てきます。
また、科学も発達していくことで、宗教の教えとの矛盾もどんどん明確になっていきます。

例えば科学でいうと、キリスト教社会に一番大きな影響を与えたのは、進化論でしょう。
今までの常識では、人間は神が自分の姿に似せて作った特別な存在だったわけですが、進化論の登場により、人間は特別な存在ではなく、ただの猿が進化した結果だという事になってしまいました。
これにより、今まで自分達は特別だと思っていた常識が崩れ、自分達も他の動物達と同じ存在にまで落ちることになってしまいました。

キリスト教の教義では隣人愛を訴えていますが、自分達の生活を見直してみると、つい最近まで黒人を奴隷として使っていたし、有色人種は継続して見下している。
黒人奴隷を開放した理由も、人権と言った観点からではなく、単純に、製造機械の発達によって労働者が余り出した為、リストラする為に開放したに過ぎない。
これらの一見矛盾する行動に対し、教義と整合性と取るために、有色人種は人間ではなく道具だと言い聞かせ、常識レベルにまで刷り込むことで、差別を正当化してきましが、進化論の登場により、有色人種も白人も、元を辿れば同じ猿だということになってしまいました。
こうなって来ると、話が変わってきます。
自分達は特別な存在ではなく、ありふれた存在で、生まれながらにして見下して良い人間なんて存在しないということになってしまいます。

一度、疑問が生まれてしまうと、それをキッカケとして、更なる疑問が生まれてしまいます。

今までは、自分達の生活を豊かにするために、他国に喧嘩を売って攻め込んで、植民地とすることで豊かな社会を築き上げてきたわけですが、攻め込んでいた国に住む異教徒達は、悪魔でも生命のある道具でもなく、同じ、猿から進化した人間だった。
ここで、帝国主義に対する疑問も生まれてきます。
また、イギリスがインドを征服して植民地化したことによって、インド哲学の英訳本がキリスト教圏に流入することになります。
西洋哲学とは全く違った真理へのアプローチは、一部に衝撃を与えることとなります。

また、資本主義による競争社会により、白人の中でも、貧富の差が生まれてくる。
朝から晩まで働き、子供まで労働にかり出しているのに、その日、食べる食料を稼ぐのがやっとの人達がいる一方で、資本を右から左へ動かすだけで、貧困層がまる1日働いてえるお金を、1日で稼ぐ人達がいる。
働いても働いても格差は広がり、富めるものはより豊かになっていく。
ここで、成長し続けなければいけない資本主義、そして、成長の為に大量に製造して大量に消費し続けなければならない社会に対しても疑問生まれてきます。

この疑問・不平不満がが一気に爆発したのが、ベトナム戦争です。
アメリカの国土が攻撃されたわけでもない、共産主義と資本主義の代理戦争の為に、わざわざ外国まで兵器を担いで戦争しにいくという行為に、「正義無きベトナム戦争」と市民が立ち上がり、反戦運動へと発展していきます。

兵器を持つより花束を。
若者たちがペンタゴンを取り囲んだ際、ペンタゴンを守る為に、国は自国の若者たちに銃口を向けるわけですが、それに対して若者たちは、銃口に花をさすという方法で抵抗を行います。
徴兵制度や派兵に反発した若者達は、『自然と愛と平和とセックスと自由』を掲げ、単なる反戦運動ではなく、今までの常識に疑問を投げかける運動へと発展していきます。

【つづく】
kimniy8.hatenablog.com

【Podcast #だぶるばいせっぷす 】 第5回原稿 西洋哲学 (4) 人はポリス的動物

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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前回は、アリストテレスが政治についてどのように考えていたのかを簡単に説明しました。
簡単に振り返ると、政治状態を、支配者層の人数別に、3つのカテゴリー、一人、少数、大勢に分けて、それを、公共のためと私事の為
もっと簡単に言うと、正しい状態と腐敗した状態の、それぞれ2つに分割して、計6個の状態に分割するんです。

政治の状態というのは、公共のために動いているうちは、1人が治めても少数が治めても、大勢で治めても問題はないんですが、政治体制というのは、いずれ腐敗してしまいます。
腐敗した場合、政治体制が3つの状態の、どの状態であっても、結果的に不満が溜まって、革命が起きて、また、別の新たな政治体制が生まれる。
そして、また腐敗して、新たに作って… という繰り返しになっていく。

こういった、同じ失敗を繰り返すサイクルに陥らないために必要なのが、中庸という価値観なんですね。
中庸という価値観は、両極端を知ることで、初めて生まれる価値観の事ですね。
少人数で治めていた場合、その、治めている一握りの人達が自分たちの利益のことだけを考えて行動すると、腐敗して、革命が起こって国は崩壊してしまう。
大人数で納めたとしても、国民自身が考えることを放棄してしまえば、国は方向性が決められなくなって、崩壊してしまう。

この両極端を知った上で、改めて生まれる価値観によって、国を治めるべきだと言っているんですね。
つまり、支配者層は支配する側の立場だけで ものを考えるのではなく、支配される側の事も知った上で、政治運営をしていきなさいって 事ですね。

これが、前回までの流れだったんですけれども、今回は、より具体的に、どのように考えていたかについてみていきます。

アリストテレスは、真理を追い求める為に 自然を観察して、そこに有る全てのものをカテゴリー別に分けていって、結果として、哲学が様々な学問に分かれていくキッカケを作ることになったんですが
この考え方は、国家というものに対しても例外ではなく、アリストテレスは、国家も観察し、分解できる最小のところまで分解して、カテゴリー別に分けていきます。

その前に、先ず、何故、国が必要なのかということですよね。
国家というのは、気を抜くと、直ぐに崩壊してしまう脆いものですよね。
それを何故、作らなければならないのかというと、アリストテレスは、それには人間の本性が関わっていると言ってます。

まず前提として、人間というのはその本性において『ポリス的動物』と言っています。ポリスとは、国・国家・共同体のこと。
これは簡単に言うと、全ての人間は共同体を作る目的で生まれてきているってことです。
アリストテレスが生きた時代に限らず、現代の社会を観ても、人間は個々にバラバラで生きているわけではなく、共同体をつくって生きているので、その結果を観察すれば、人間は共同体を作るというのは理解しやすいですよね。

では、その国家というのは、何の目的で作られているのかというと、何らかの善を目指して作られるわけです。
というのも、人間というのは、善と思える行動しか取ることが出来ないので、その集団である国家は、善を目指して作られます。
ここで注意が必要なのは、この善というのは、絶対的な善の事ではないということです。
人間、それぞれが持つ、それぞれの善ということです。

例を出すと、戦争というのは、結果を見れば善悪に別れるわけですが、自分が悪い行動をとっていると認識しながら戦う国家はなくて、闘っている時は、自分達こそが善だと思っています。
というのも、仮に、自分達が悪だと思って戦争を仕掛ける国家があるとして、その指導者の意見を聞き入れて、自分の命を捧げる兵士が何人いるかという事になっていきますよね。
人を動かすためには、大義が必要になってくるわけです。

実際に命をかけて戦場に向かう兵士は、自分達が行っている行動が正しい行為だと思わなければ、戦場に向かうことは出来ないですよね。大義名分もなくて、他人に言われるがまま人を殺せる人間は、ほぼ、いないですからね。
つまり、何らかの行動を起こせるということは、少なくとも、行動を起こしている本人は、良いことだと思っているわけです。他にもっと良い、実行可能な選択肢が有るのなら、その人はその選択を選んでますからね。
つまり、戦争は、善と悪の戦いなのではなくて、善と善との戦いなんです。善と悪なら、まだ、説得すればいいから楽だけど、善と善だからややこしい。

別の例で、ここ最近は、テロが頻発していますけれども、少なくともテロリストにとっては、自分達の行っている行動は善なんですよ。
日本なんかに住んでると、欧米側のスタンスのニュースが頻繁に入ってくるので、イスラム側のテロの事件が頻繁に取り上げられて、犯罪者って扱いで報道されるので、単純に悪って決めつけてしまいがちだと思います
でも、向こうの立場に立って考えれば、イスラム側はアメリカから物凄い数の空爆を受けているんです。
アメリカ側のの口実としては、テロ組織を潰すためという大義名分で行っているわけですけれども、その空爆で、テロリストだけをピンポイントで殺せるかと言ったら、そんなことはありえないですよね。

といか、ピンポイントで狙えるなら、捕まえに行けよって話ですからね。
空爆は、特定の範囲に対して行うわけで、当然、物凄い数の民間人が殺されてるわけですよ。
仮に、その空爆で、自分以外の家族や愛する人をすべて殺されて、自分だけが生き残った人がいたとする。その人に、テロリストが近づいて『復讐の機会を与えてやるぞ』といったとしたら、どうでしょう。
そして、時限爆弾を渡されて、自爆してこいって言われたとしたら? 守りたいものを全て失った人間にとっては、この世は生きている意味なんて無い状態ですから、引受ける可能性はありますよね。
テロを起こされる側から見れば、ただの残虐な犯罪者ですけども、少なくとも、自爆を実行する人間にとっては、正当な仇討と思っているわけで、善の行為だと、思っているわけですよ。

もっと極端な例でいうと、快楽殺人者というのは、一般から見ればただの犯罪者ですし、行ってる行動は良い行いとは言えないですよね。
ただ、本人は、人を殺したい衝動を抑えて生活するよりも、他人を殺害することで得られる快楽を天秤にかけて、快楽を得る方が、今の自分にとっては良いと考えるから、反抗を犯すんです。

ここで言う善は、それぞれが持つ善の価値観であって、絶対的な価値観ではないと考えたほうが、理解しやすいと思います。

話を戻しますと。
国家というのは、善を行うために作られるんです。

で 続けてアリストテレスは、全てのなかで最も優れ、他のあらゆるものを包含(ほうがん)している共同体こそ
あらゆる善のうちで最もすぐれた善を、最高の仕方で目指すという事。 この優れた共同体が、国家(ポリス) と言っています。

引用文なのでわかりづらいと思うので、もっと簡単に言うと
国を構成している それぞれの人は、それぞれの善を持っていて、その善を基準に行動しようとするんですが、共同体を作ると、他人との摺り合わせを行う必要性が出てきます。
というのも、自分が持つ善と、他人の持つ善は違います。 だから、他人と意見交換をしたり、意見が対立した時には多数決をとったりするわけですね。

その過程で、全ての人がもつ善のエッセンスを含んだ、強化された善、ブラッシュアップ、切磋琢磨、色んな方法が有りますが、最高の善を、最高の方法で、皆で目指していくという事。
この優れた共同体のことを、国家といっているわけです。

これは裏を返せば、共同体を構成している人間 一人ひとりが、自分なりの善という価値観を持ち、それを他人と共有し合うことで、より良い善を生み出していかなければ、国家は成立しないってことです。
つまり、これは前回に話したことに繋がるのですが、人間一人一人が、自分にとっての善、つまり、やりたいこと、どの様に生活したいのかという意見を持たずに、他人に丸投げしてしまう場合、国家は成り立たないという事です。
これは当然ですよね。意見を他人に丸投げする人が 増えれば増えるほど、少数の人間に権限が集中していくわけで、その人達が自分達にとって有利な善を追求していくと、腐敗につながりますよね。
これが、大枠での国家の考え方です。

ただ、アリストテレスは、これだけではとどまらずに、国家と構成員という大きな枠組みだけでなく、その仕組み、システムといえばよいのか、それも細分化していきます。
前回の最後の部分で、アリストテレスは、国民に主権をもたせる民主制ではなくて、少数の支配者層に任せるべきだと言った部分についてですね。

共同体としての国家を分割していくと、国家は複数の村によって成り立っていて、村は複数の家族によって成りてっていて、家族は、主人と妻、子供、そして奴隷によって成り立っていると考えます。
つまり、国、人という2分割ではなく、国を、先ず大きな枠組みで分割し、それをさらに分割するという方式で成り立つって考え方ですね。
日本でいうと、国を県で分割し、剣を市町村で分割し、市を区に分けていきますよね。それを、家族まで分割して考えるんです。

ここで、家族の構成員に、奴隷という言葉が出てきたわけですが、この時代のギリシャは、奴隷を使って、普段の生活に必要な 衣食住に関する物の生産 などを行っている社会です。
奴隷制と言うものがあったからこそ、ギリシャ市民は労働から開放されていて、『真理とは何なのか』とか、『人間はなんのために生きているのか』なんて事を考える暇があったわけです。
これが、日々の生活に追われていて、今、働かなければ、今日 食べる食べ物がないって状態では、こんなことを悠長に考えていられないですよね。
そんな事を考えているよりも、食料を探してこいって話になりますから。
こういう目線で考えると、ギリシャ哲学が発達したのは、奴隷が身の回りの世話を全部やってくれていたからって考えることも出来ます。

ここで、前回の最後に言っていた、アリストテレスが、政治は民主制ではなく、少数のもので行うべきと考えていたのか ということにつながってくるわけですが、アリストテレスは、奴隷には政治に参加する権利を認めてないんです。
というのも、奴隷には考える頭がないので、基本的には、労働だけやっていれば良い。
そして、労働から開放された主人が、善について考えて、政治に反映させれば良いと考るわけです。

この流れていくと当然なんですが、アリストテレス奴隷制度擁護派の立場をとっているんですね。そして、奴隷を正当化するために、独自の理論も展開しています。
どのような主張だったのかというと、一言で言うと『奴隷は支配されるように生まれついた不完全な人間』として、肯定したんですね。
もっと具体的にいうと、奴隷として生まれついた者は、自分で考える理性を持ってはいないけれども、他人から命令された事を 理解して行動する 程度の頭は持っている。
なら、奴隷に対して主人が指示をだすことで、効率よく生活が出来るわけですから、それで良いという考えですね。

これは、人種差別的な考えで、この考えが後に、更に発展していくことになるんですが、この説明は長くなるので、また次回にということにしようと思います。

思い込みの『常識』によって衰退する会社

先日、Twitterのタイムラインを眺めていたら、否定的なコメントとともに、このwebサイトの漫画のスクリーンショットが貼られていました。
www.digital-sense.co.jp

簡単な内容としては、新入社員が、会社にどれ位の時間に出社すればよいのか分からない。
という意見に対し、その会社の上司・もしくは社長と思われる人物が、業務開始10分前には出社して、モーニングコーヒーを飲んでいるぐらいの余裕が欲しい。
と答える。
その返答に対し、10分前に着いたとしても、何をして良いのかわからないと新入社員が質問し返し、社長は、『マニュアルを読むとか、業務の復習をするとか、色々有るでしょ。』
『また女性の場合、先輩方にお茶を入れて、気分よく仕事をしてもらえるような雰囲気作りをしろ。』と忠告。

この忠告に対し、女子の新入社員が『また、女子社員はお茶くみですか? 男子が入れても良いんじゃないですか?』と反論したところ
『男子が入れたお茶よりも、キレイな女子が入れた茶を飲むほうが気分がいいだろう。』と返答。

それを横で聞いていたお局様のような方が、『新入社員なんて、足手まといにしかなってないんだから、せめてお茶淹れて媚を売って、点数稼げよ。』と忠告。
これを聴いた新入女子社員は『お金貰って教えてもらってる立場なんだから、当然ですよね!』と見事に納得するというストーリー。

このツイートに対し、多くの賛否の声が挙げられていました。
これを観た私の感想としては、日本の経営の悪い所が垣間見える感じの漫画だなという印象を抱きました。

どの点に疑問を持ったかというと、まず、会社の上層部の人間が、出社時間の10分前に出社して、仕事に絡むことをやれと言っている点。
私個人としては、100歩譲って、新入社員が自分で考えて、10分前出社を決めたというのであれば、それはそれで問題はないと思っています。
会社から歩いていける、もしくは、自転車など、出社にかかる時間が短い上に容易に想像できるような場所にでも住んでいない限り、毎回、ギリギリに到着するほうが難しい。
電車の場合は、電車が遅れるなんてアクシデントもありますし、車の場合も、事故などで渋滞なんてことも有ります。
遅刻を避けたい場合は、自主的に、余裕を持って行動する事に対して反対はいたしません。

しかし、これは、あくまでも個人が自主的に行動する場合です。
会社の上層部が社員に言った時点で、発言した本人は強制だと思っていなくても、下の人間からしてみると強制された状態になります。

また、この上司は、業務開始時間までに時間が余っているのであれば、マニュアルを読むなど、業務を円滑に進められるように勉強をしておけとアドバイスしています。
こういうことをいう上司は、新入社員が10分前に出社してマニュアルなどを読んでいると、更に10分早く着て、デスクを掃除でもしろと言い出します。
その忠告を聴いてデスクを掃除していると、『自分の机だけか? 新入社員で役に立ってないんだから、トイレぐらいついでに掃除をしておけ』とか言い出します。
そして、更に10分早く出社し、トイレ掃除をする事になります。
そうして従順になっていると、今度は更に30分早く出社して、会社の前の道路も掃除しろとか言い出しかねません。

会社としてのスタンスとしては、出社時間に間に合えば良いで通すべきであって、遅刻が続けば、その事を注意すれば良いだけでしょう。

それ以降のお茶くみ話は、本当に意味が分からない。
この漫画では、新入社員は足手まといで、役に立たないと言いつつも、業務に関係のないお茶くみをする事を推薦している。
会社のことを考えるのであれば、お茶くみしている時間を仕事を覚えることに使ったほうが効率的だと思うんですが、ここでは何故か、お茶くみが推薦されている。
しかも、キレイな女子限定で。

後半に登場するお局様いわく、『そういうパフォーマンスをすることで周囲の評価も良くなる』らしいのだが、何の評価が上がるんだろうか。
仕事もせずに笑顔を振りまいているだけで高評価になって出世できる会社なら、そんな会社は長くは持たないだろう。

それとも、この『評価』は、仕事を教えてもらえるといった事を言っているのだろうか。
媚を売った人には仕事を教えるが、そうでない人には教えないという会社であれば、そんな会社も長続きしそうにない。
というのも、人材育成というのはシステムに組み込んでおくものであって、人の裁量に委ねられている場合はロクな事にならない。
裁量に委ねられている場合、教える・教えないを人質にとって権力を握れる人間が出てきてしまう。
その権限には、会社そのものを良くする効果はありませんし、また、そいつが、人の上に立つ器でない場合、組織にとっては癌でしかない。

また、この漫画全体に漂っている空気も問題。
この漫画では、出社時間外に業務に関係のある、無しに関わらず、行動を行うことが『努力してます』アピールにつながり、結果として評価が上がるといった事が書かれている。
結果として行われるのは、アピール合戦。
業務や売上に関係のない、お茶くみ等のアピールを業務時間中に行い、業務時間が終了してから、業務時間内に出来なかった業務を残業を行うという名目で行うことで、さらなるアピールに繋がる。

その一方で、業務時間内に無駄なことをせず、仕事だけに集中した結果として業務時間内にすべての仕事が終わり、定時で帰ろうとする人は、相対的に頑張っていないと烙印を押される。
酷い場合は、残業している人間の仕事を手伝ってやれと言われる。
結果として、生産性は落ちまくる。

当然のように、効率よく仕事をしている人は、この様な理不尽な状態に耐えなければならない状態となり、耐えられない場合は、見切りをつけて転職することになる。
転職先が、効率や合理性を追求している外資だった場合、日本企業は優秀な人材を外資に吸収される形となってしまう。
その一方で、日本企業に残るのは、『頑張ってます!』アピールする人達だけとなり、生産性は更に落ち、その差は、ますます広がってしまう。

昔は、ゲーム大国と言えば日本でしたが、現在ではアメリカに完全に抜かれ、ゲームの最新情報はアメリカで配信されるのを待っている状態です。
また、オンラインゲームに関して言えば、国としての人口が半分しかいない韓国にも負けている状態。
日本が力を入れているものといえば、アイテム課金スマホアプリぐらいですが、それも、オリジナリティーがあるものではなく、今売れているアプリのシステムをパクったクローンが大半。
アニメも、委員会方式で予算が出ない状態なのに、クオリティーは求められる状態に嫌気が差し、アニメーターが中国に逃げるという状態にも追い込まれています。

人材の流出によって、日本の強い分野というのがドンドンなくなっているわけですが、そんな状態に対して日本の人達は
売国奴!』だとか『ノウハウを奪われたら首切られる。そうなっても、戻ってくるなよ!』なんて言葉を投げかけるだけ。
決して、待遇を良くして流出しないようにしようなんてことは考えない。

今回は、極端な感じで思考を巡らせましたが、程度の差は有れ、この様な事は実際に起こっています。
一部では、日本はオワコンなんて言われ方をしていますが、雇う側も雇われる側も、仕事のあり方や待遇について、そろそろ真剣に考えなければいけないのではないでしょうか。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 】 第4回原稿 西洋哲学 (3)アリストテレスの政治論

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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今回は、前回、紹介したアリストテレスが、政治に関してどのように考えていたのから、簡単に説明していこうと思います。
その前に、一応、言っておこうと思うのですけども、今回に限らず、この音声ブログで言っていることは、私が理解とか解釈を元にした事を発信しているので
そもそも、私の理解が足りないことや、解釈が間違っているといった場合も結構あると思います。
ですので、疑問に思ったことや、少しでも気になったことは、自身で調べることをオススメします。

前置きはこれぐらいにして、早速、本題に入っていこうと思います
前回、アリストテレスは、様々なことをカテゴリー別に分けていったという話をしました

例えば、動物を観察によってそれぞれの種族に分類したり、漠然とした学問を、それぞれの専門分野に分けるなどですね。
アリストテレスは、これを政治の体制にも当てはめて、6つのカテゴリーに分けて考えました。

この6つの分け方ですが、先ず、政治体制を3つに分けます
一人の王が支配する、単独支配。 複数のものが支配する、少数支配。 そして、多数支配。
この支配カテゴリーを、更に、公共のための政治と 私事の為の政治という2つの目的に分けて、それぞれに名前を付けていきます。

少し余談になりますが、哲学はこれ以降、どんどん、物事を構成しているものを突き止めて、それに対して名前をつけていくという作業を行っていくことになります。
例えば今回の例でいうと、元々あった3つの支配体制を、更に2分する事によって、6つに分けて、それぞれに名前を付けます。
これと同じように、元々あった、一つのイメージや言葉を、観察や分析によって、更に、細分化していき、それぞれに名前を付けていくという作業を繰り返していくんですね。
これによって、膨大な哲学用語や科学用語が生み出されることになります。

哲学が一般に浸透しない理由としては、これらの用語は、細分化していく過程を知って、その用語の意味を知っている必要があるからなんですね。
つまり、一番最初の基礎から順番に読み解いていって、その言葉の意味や由来を知っていないと駄目ってことなんです。

SF作品を呼んだり観たりすると、ユングとかフロイトとかの思想なんかが入っていて、これで興味をもって、これらの学者の人達の本を読んでみたいなと思われる方も多いと思うんですけども
大抵の場合、理解できずに挫折してしまうことが多いと思うんですね。
その理由として一番多いのは、本の中で使われている用語の意味がわからないというものだと思います。
でも、こういう人達の書いている本は、基本的に、細分化された用語を更に細分化したり、別のアプローチから観察することで、別の名前をつけたり、細分化された用語同士が、どの様に関係しているかとか
影響を与えあっているかと言った書き方で書いてあるので、専門用語を知らない時点で、読めないんですね。

なので、もし、特定の分野について知りたいと思っているけど、本が難しすぎて理解できないという人は、興味をもっている人物よりも前の時代に生きた人や、社会を分析した本を読むほうが
理解しやすいと思います。変に、『図解』とか『誰でも分かる』なんて言葉を冠しているタイトルの入門書を読むよりも、本当の意味で理解できると思います。
解りやすく簡単に説明しようと思うと、例え重要な部分であったとしても、端折らなければならない部分ってのが出てきますし 結果として、間違った解釈を誘発してしまう可能性も出てきますからね。

という事で、本題に戻っていきますね。
アリストテレスは、国を治める人数によって3つのカテゴリーに分け、その3つをそれぞれ、公共のための政治と、私事の政治の2種類に分けて、それぞれに名前を付けました。
先ず、公共の政治で1人の人間が治める政治を、『王政・君主制』として、複数の人間が治める政治を『貴族制』多人数で治める政治を、『国制』としました。
次に、私事の政治で1人の人間が治める政治を、『僭主制(せんしゅ)』 複数の人間が治める政治を『寡頭制』 多人数で治める政治を『民主制』としたんですね。

僭主制や寡頭制というのを、言葉の意味をひとつづつ調べていくと、違う解釈がでてきたりもするんです
例えば、僭主制という言葉を調べてみると、王の血筋などとは違う人間が、実力により王の座を奪い取り、身分を超えて君主となるもの という説明が出てくるんですね。
これは、簡単に言うとクーデターの様な感じで、王の血筋と関係のない人が権力を奪い取る事を刺しているんですが

今回ここで使っている言葉とは意味合いが違うので、切り離して考えてくださいね。
で、政治というのは、公共のために行っているうちは、どのシステムでも、上手く回っていくもんなんです。

一人の王が支配していたとしても、その王が、公共のためになることを第一に考えて行動していれば、その国は上手く行きます。
貴族制も、その土地土地を支配する領主が、領民のことを考えながら土地を治めるのであれば、それはそれで良い政治といえますよね。
多人数で治める国政も、その国に住む住民全てが、国がどのようになれば皆が幸せになるのかを真剣に考えるような人達であれば、国はより良い方向へと向かっていきます。

しかし、これらの3つの政治体制は、いずれも腐敗する可能性が出てきます。
例えば王政の場合は、代を重ねていくと、確率からいっても、いずれ、自分のことしか考えない馬鹿が王になる可能性が出てきます
そうなると、王は自分の私腹を肥やして贅沢をする事に夢中になるので、国民は置き去りにされて、苦しい状態に追いやられます。

貴族制の場合は、治めている人間が多人数になる為、王政に比べると、ブレーキを掛けてくれる人間の存在によって、システム的には安定しているともいえますが、
それでも、腐敗する可能性はあって、腐敗した場合は、貴族が領民から搾取することで貴族が私腹を肥やすようになって、この貴族同士が権力や領地を巡って争うようになる為
結果として戦国時代に突入してしまいます。
このあたりの流れは、日本でもヨーロッパでも同じですよね。

そして多数が国を納める場合ですが、これは、そもそも国民が公共のことを考えて行動を取るという可能性自体が低いですよね
私達が住んでいる今の日本を見てみればよくわかりますけども、政治について語っただけで、右とか左なんてレッテルを貼られて煙たがられますよね。

例えば酒の席で、流れで政治の話になった時なった場合、『そんなに政治に興味が有るんなら、立候補したら?』て言われて話を打ち切られたり
中には、『政治とか外交問題なんて、あんたに関係のないでしょ?関係のないことに、何を一生懸命になってるの?
そんなことに時間を使うなんて非生産的な事をするぐらいなら、もっと建設的なことを考えたら?』みたいな事を言う、意識高い系 みたいな人もいて、なんなら、そっちの方が大人な空気になってきています。

こんな状態で選挙をした場合、政治家は、政治のことを全く考えない人間を相手に選挙戦を戦うわけですから、公共の利益を追求することがないですよね。
だって、公共の利益を第一に考えて作られたプランを説明したところで、政治のことを普段から深く考えていない人間は、そのプランを理解することが出来ないわけですから、票につながりませんよね。

政治家は、どんなに立派なことを言ってたとしても、当選しなければただの人であるわけですから、受かるためには、政治の事を考えたことがないような人を、上手く誤魔化すための方法を考えますよね。
その結果として起こす行動が、ニコニコ動画なんかに出演して、ネット層に迎合していくっていう、政治に関係ない、人気取りに終止するわけですよ。

また、国民が無知であることは、政治家にとっては非常に便利な状態なんですね。
というのも、ミスをしても無知な国民は、それをミスとは気が付かないわけですから。
中には気がつく人もいるわけですが、これに対しても、まともに反論する必要はないわけです。
というのも、政治家は多数の票を獲得すれば、自分達の職は確保できるわけですから、反論に対して、きっちり答えるなんてことをしなくても、反論してくる人間を、頭がおかしい人に仕立て上げてしまえばよいわけです。

最近の身近な例を出すと、加計学園問題ってありますよね。
最近、数十年ぶりに獣医学部が作られることになったんですが、その学校関係者と安倍総理が親友で、口利きした可能性があるって問題ですね。
この問題に対して、首相に対して便宜をはかる様な証拠の文章が有ると主張している人が出てきたんですけども、その人が、普段から出会い系BARに通っていたという事実が出てきて、
だから、この人の言ってることは信用できないし、証拠に意味なんかないって話になってきてるんですけども、証拠の文章や、その様な事実が有ることと、出会い系BAR通いは、全く関係のないことですよね。
ここで重要なのは、証拠としての文章が本当にあるのか、無い場合、組織ぐるみで隠蔽するために、廃棄された可能性はないのかと言ったことで、発言者のシュミは関係ないんですよ。

でも、ワイドショーなんかは、出会い系BARの話が出てきてからは、、BARのシステムを解説するためにものすごい時間を書けてますし、そういうところに通っていたという事を強調していいますよね。
下世話な話をするほうが、数字がとれますからね。 
この様な流れは、冷静になって考えると、おかしいということが分かるんですよ。シュミの問題と、証拠となる文書が有るか無いかは別次元の問題ですからね。
でも、国民が無知であったり、関心がない状態だと、その流れに流されてしまうんですね。といのも、大半の人間が、自分で考える事をしないですから。

ここで間違えてほしくないのは、『だから、政権批判をしろ』と言ってるわけではないんです。
政治家が決めることを全て批判するというのは、何も考えてないのと同じですからね。
一つ一つ吟味していくってことですからね。その結果として、政治が行うことに対して賛同できれば、その件に関しては賛同し、反対であれば、その件に関して反対をすればよいだけなんです。

でも、何度もいうようですが、実際の社会は、この様になってないですよね。
政治家は、自分の主張を通すために、正々堂々と議論するのではなく、相手の揚げ足を取ったり、スキャンダルを流して信用を落とすことで、自分が正しい事を証明しようとしますし
国に対する監視の役目を負っているメディアは、小難しい話は避けて、下世話な話に持っていきますよね。
STAP細胞の小保方さんの時も、そうでしたよね。科学のことをメディアは説明も出来ないし、説明したとしても視聴者は理解できないから、小保方さんを後押しした男性の教授と肉体関係があったのかどうかに話題が移って
最終的には、男性教授が自殺することで、後味の悪い終わり方をしてましたよね。

そして国民は、こんな状態を受け入れていて、政治に関しては無関心を貫き通してますよね。
こんな状態で、国が正しい方向に進んでいくほうが、私は奇跡だと思います。

ちょっと話がそれましたが、この様な感じで、アリストテレスは、全ての制度は最終的に腐敗して、システムが限界まで来たところで、革命によって、制度そのものが新しくなると考えたんですね。
でも、これだと答えになってないですよね。
『人は過ちを繰り返す』なんて、ゲームのFallout4のエンディングみたいなセリフを言われても、目指すべき方向なんてわからないじゃないですか。

そこで、アリストテレスが考えたのが、中庸っていう考え方ですね。
王政や僭主制というのは、治めている人間が1人なんで、腐敗も起こりやすいから論外としておいて、寡頭制と民主制の中庸を目指すべきと考えるんです。
この中庸という言葉は、寡頭制と民主制の中間ぐらいがいいんじゃないかって考えとは違います。
両極端を知ることで、新たに生まれる価値観という意味です。

例えば、恐ろしい出来事に向かっていかなければならない状態を想像してください。
その状態で、相手の恐ろしさを全く理解していない状態で立ち向かっていく行為は、蛮勇です。ことの重大さを理解できていないから個を、気軽の起こせる迂闊な行動
逆に、相手の恐ろしさを十分に理解して、手も足も出せない事を把握した状態で、向かって行かないことは、臆病です。

中庸を中間とする場合は、この、2つの行動の中間。つまり、中途半端に相手を知った状態で向かっていくことになるんですが、そういう事ではないんです。
蛮勇と臆病という両極端な価値観を知った上で、覚悟を決めて勇気をだして前に進む価値観が、中庸です。

つまり、寡頭制が腐敗して限界になった状態と、民主制によって崩壊する国家の両方を知った上で、生み出される新たな価値観が重要としたんですね。
具体的には、寡頭制で、領主が私腹を肥やすために領民に対する締め付けを増やすなどして、領民の大半を貧困に追い込んだ場合、この貧困層は革命予備軍となり、いつか実行する。
領主が倒されたことによって、政治が国民のものになったとしても、貧困層には政治を運営する理性がないので、結果として国家は崩壊する。
その事を知った上で、締め付けを抑制することによって、革命を起こさないようにするってことでしょうかね
ここで重要なのは、アリストテレスは、政治は支配者層が行うべきだと考えていた点ですね。

何故、アリストテレスが支配者層に政治を任せるべだと考えたのかというと、人間そのものもカテゴリー分けをしていたからなんですね。
この件についてなんですが、時間も結構 良い感じになってきたので、今回はこのあたりにして、続きはまた次回にしようと思います。

ドラマ『光のお父さん』を観て FF14を始めてみた

ここ最近、『光のお父さん』という名前のドラマの話題を頻繁に耳にするようになりました。
調べてみると、オンラインゲームのFF14をストーリーに組み込んだドラマとのこと。
少し興味が出てきたので、Netflixで配信している事もあって観てみました。

ドラマのストーリーとしては、昔は仲が良かった父親と息子だったけれども、成長して大人になるに連れて、父親との会話が少なくなってしまった。
心の距離が離れてしまった親子の関係性を、もう一度、昔のように戻したいと思った息子が、自分が現在プレイしているオンラインゲーム、FF14の世界に誘い、息子という事を伏せた上で父親のキャラクターに近づき、ネット友だちになることで、距離を縮めていこうという作戦に出る…
って感じの話。
あまり詳しく書くと、今話題のネタバレ警察がやってきそうなので、気になった人は観てみてください。
1話30分ぐらいで話数も少ないので、サクッと見れますので。

で、観た結果、見事にFF14をプレイしてみたくなりました。
スクエア・エニックスの思う壺ですね。

このオンラインゲーム、FINAL FANTASY 14 ですが、MMORPGというジャンルのゲームになります。
余りゲームをしないという方の為に、簡単にMMORPGの説明をすると、この手のジャンルのゲームには、世界とその世界内の歴史などが設定されていて、その舞台に沿った形でのクエストが用意されています。
ここまでは、普通のドラゴンクエストやFF等のRPGと同じですね。
ただ、普通のRPG(ロールプレイングゲーム)と違ったMMOの一番の特徴は、その世界を行き来する人達が、この世界に実在する人間が実際に動かしているプレイヤーという点です。

より解りやすく理解するために、ゲームの世界に存在する架空の街を思い浮かべてみましょう。
その街の店の店員や街を守る衛兵など、システムに関わる人達はNPC(ノンプレイヤーキャラクター)という運営が用意したキャラクターなのですが、それ以外の道を行き交う人々は、他の人間が操作しているキャラクターということになります。
その為、道に迷った際に近くに人がいる場合は、チャットで道を訪ねたりすると、答えてくれたりするわけです。
まぁ、相手が人間である以上、面倒くさいと思われれば、無視されることも有りますけどね。

町の外に出ると、当然のようにモンスターが待ち受けているわけですが、その敵と戦っている人達も、他の人がプレイしているキャラクターだったりします。
このゲームでは、敵と戦う際の適正レベルが表示されているのですが、無謀な戦いを仕掛けたとしても、運が良いと、通りすがりの人が回復をしてくれたり手助けしてくれたりもします。
スルーされる場合も有りますが。

また、この手のゲームには、一人(ソロ)では倒すことが出来ないような強敵なんかも登場します。
そんな時は、パーティーを集めて、皆で戦闘に参加する必要が有ったりします。
つまり、ゲームを進めるためには、コミュニケーションを取ることが必須とされているゲームともいえますね。

こんな感じで、一つの世界に皆で入っていく感じのゲームが、MMORPGというジャンルのゲームだったりします。
ただ、早速購入!…とはいかず、私は何日も考え込む日々が続きました。

何故なら、その昔、MMORPGに激ハマりしてしまい、日常生活にも影響が出た経験があるからです。

この『だぶるばいせっぷす』というブログ。
今でこそ、社会・経済なんていう堅い話が多いわけですが、もともとFC2ブログではじめた時は、『メイプルストーリー』というMMORPGのプレイ日記としてスタートしてたんですね。

今はどうなっているか知りませんが、当時のメイプルストーリーは、レベル上げの経験値を得る為に、狩りと呼ばれる、MAPに湧く敵を無心で狩り続けるという行為を行わなければならないわけですが…
そのMAP、敵の湧き方にばらつきがあり、効率を求めるためには、程よく狭くて敵が湧きまくるマップで狩る必要性が有りました。
しかし、1つのMAPは1人、もしくは1PTが占領するという暗黙のルールがあり、MAPは早い者勝ちとなっていた為、人がいないような時間にログインし、そこから何時間 狩れるかというのが重要になってきていました。

つまり、仕事でもないのに、平日の早朝4時とかに起きてログインし、マップを選挙して、朝ごはんまでの3時間を狩りまくる。
仕事が終わると、マップが空いていないか巡回し、効率のよいところを探すために彷徨うというのを繰り返さなければならなかったわけです。
ちなみに、このゲームではビッグバン(BB)と呼ばれる大型改変があり、その後も改良が進んで、レベルはどんどん上がりやすくなっていくのですが、私がプレイしていたBB前は、高効率マップで1時間狩っても、経験値は下手をすると3%程度しか上がらない。
つまり、1レベル上げるのに、同じマップで30時間程のルーチンワークをする必要があり、かなり時間を吸い取られていたわけです。

その後、メイプルストーリーに疲れてきた所、当時所属していたギルドの方々が、のんびり系のゲームに移籍しだした為、私もついていくことに。
そうしてプレイを始めたのが、『マビノギ』です。
日常系オンラインという事で、戦闘だけでなく、料理や鍛冶、演奏や裁縫など、様々な生活スキルを身につけることが出来て、それをプレイヤー同士で売買できる。
まさに、ゲームの中で暮らせるんじゃないかと言った感じの、ほのぼの系ゲーム。
レベル上げも簡単で、レベルを上げる毎にスキルポイントが貰え、それをスキルに振っていくタイプ。
高レベルになってレベルが上がりづらくなったら、課金して転生すれば、またレベル1に戻れる為、楽ちん!…

と思いきや、これも、高レベルのスキルを身につけるためには、物凄い数の練習が必要になる。
例えば裁縫の場合、高レベルの場合は、高レベルの服を数千着作ることになるわけですが、その素材を手に入れるために、紡織スキルが必要になる。
紡織スキルを上げるためには、大量の蜘蛛の糸や羊の毛を集めてきて、ひたすら糸車で糸を作り、その糸を布にするという作業が数千回必要と言った感じで、極めるとなるとまぁまぁ辛い。
そんな感じで、このゲームも、スキル上げの為に生活を削るという日々が続き、結果として、IN率が下がって終了してしまった過去が有ります。

こんな私が再びMMOにのめり込んでしまうと、また、膨大な時間を浪費してしまいそうな予感がしてしまうため、即購入とはならなかったわけです。

どうしようか迷いつつ、とりあえずPS STOREを値段を確認しようと訪れてみると、なんと、50%オフのセール中…
ドラマとリンクしてセールをする辺り、流石と言わざるをえないですね。
という事で、背中を押される形で購入してしまいました。

作ったキャラクターは女性キャラ。中の人は男ですが、私は、キャラメイキングの有るゲームでは女性しか作りたくないので仕方がありません。
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名前は、名前が『Gally』で、ファミリーネームが『kimniy』です。 名前の由来は、手元に銃夢があったから。
名字の由来は、ツイッターアカウントからの流用です。
サーバーは、知り合いがいるということで『ixion』でつくってみました。

友だちになってくれたり、色々教えてくれる人がいればありがたいです。

ちなみに、このゲームを購入した後で、全職業をレベル35に上げるまで無料でプレイできる、無料トライアルの存在を知りました…
また、6月20日以降には、別売りの追加アップロードデータを含むコンプリート版が、格安で出るそうです。
これを読んで興味を持った方は、これらを利用したほうが良いかもしれませんね。

一応言っておきますが、このゲームはパッケージを狩ったら終了というゲームではなく、月学課金制。
まぁ、1500円程度なので、月に1回、呑みに行く回数を減らすだけで、捻出できる金額なんですけれどもね。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 】 第3回 原稿

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
その為、後半部分はまとまってません。

興味が有れば、番組の方もよろしくお願いします。


前回・前々回と、『史上最強の哲学入門』という本の紹介をさせていた
だいていて、前回からは第一ラウンドを簡単に振り返るという内容で配信しましたが、
実際の放送内容は、より流れを理解しやすいように、この本に書かれていないことも付け加えて話していました。
今回の内容も、その傾向がより強くなっているため、前回と今回からのタイトルを『西洋哲学』という名前に変えさせていただきました。
個人での放送 コンテンツのあり方も探り探りの状態で、 これからも変わる 
哲学者の紹介順は、先程紹介した本『史上最強の哲学入門』で紹介されている順番通りに紹介する予定だったんですが、その順でいうと、今回はデカルトの予定だったんですが

デカルトが生きた時代とか、それ以降を説明するためには、アリストテレスという人物の存在が避けられない状態になってしまったので、紹介の順番も変えることにしました。
こんな感じで、前回に言っていた内容と、今回からコンテンツで語る内容は、少し違った内容になると思いますので、予めご了承ください。

ということで、今回紹介させていただくのは、アリストテレスです。
この人物は、前回紹介したソクラテス、そしてその弟子であり、イデア論を唱えたプラトンの弟子に当たる人物
紀元前384年に生まれた人物ですね

同時期に生きていた歴史上の人物で有名な人は、アレキサンダー大王 アレクサンドロス
この人物を簡単に説明すると、個人で世界制覇を目指した人物 世界といっても、この当時に正確な世界地図があったわけではないので、その当時に知られていた世界ですけどね
具体的には、ギリシャを出発してトルコに向かい、そこからアフリカ大陸に有るエジプトを攻め落としてファラオになります
その後、東に引き返してイラン、昔のペルシャを攻略しつつ、その奥のインドまで行ったといわれています
王に即位したのが20歳の頃で、その12年後の32歳の時には亡くなっているので、実質12年間で、今のような交通手段もない状態で、広大な大地を征服したということになりますね。

アリストテレスは、このアレクサンドロスの家庭教師としても有名ですね。
前の放送で、哲学というのは、昔は学問全般のことを刺していて、そこから専門分野ごとに派生していったという話をしたと思うんですが
この人物は、哲学を、様々な専門分野に分けたことでも有名で、『万学の祖』とも呼ばれているそうです

分けるきっかけになったのは、前回紹介したプラトンが主張したイデア論への批判からのようですね
イデア論を簡単に振り返ると、私達が住む現実の世界に存在する全てのものや現象は、イデア界に存在するオリジナルの概念の劣化コピーだということです
円は、コンパスを使えば簡単にかけて、この世に再現できるように思えますが、実際に再現された円というのは、例えば鉛筆で円を描いた場合、鉛筆の黒鉛が神についているところとついていないところなどが出来て、
拡大すると正確な円になっていない。また、コンパスへの力の加え方がおかしければ、書き始めと書き終わりの部分は、正確につながっていないかもしれない。
現実の世界に再現された円というのは、円に似た形であって、完全に正確な円ではないですよね

このイデア論という考え方ですが、一見すると屁理屈にも思えますよね
円らしいものでも、他人に円だと伝えることが出来れば問題はないわけで、それが本当に正確かどうかは、そこまで重要じゃないと考える人も多いかもしれませんね
ただ、このイデア論というのは、そんな浅いものではないんですね

前回の放送でもいいましたが、プラトンの師匠のソクラテスは、国民が政治に感心を持たないことによる衆愚政治の犠牲になって、処刑されてしまいました。
それを機に、プラトン哲人政治論という、一人の王に政治を任せるという一種の独裁政権を主張しだすのですが、
王の資格を持つのを、神を感じられる人間としたんです
神というと、宗教臭い感じに思われる方もいらっしゃるとは思うんですが、そういうニュアンスではないんです

神というのは、全知全能っていう あらゆる意味で究極の存在なんです。
つまり、究極の知識を身に着けて、究極の美を兼ね備えていて、完全な善を理解するものなんです。
その神のイデアを、概念を理解するということは、それが理解できる人間は、究極の知識とは何なのかを理解し、究極の美を判断することが出来て、完全な善を遂行して、民衆を完全な幸福に導くことが出来る存在なんです
神のイデアを認識する事が出来る時点で、その人間は人格者なので、そんな人間が王になって民衆を先導すれば、全てがうまくいくと考えたわけです

一見すると納得してしまうような理論で、実際にも、この理論は完成に近づいていたようなんですが、哲学が宗教と違うところは、宗教は信仰を重要視するんですが
哲学は真理を追い求めるものなので、確からしい事は疑って、確かなことを見つけようとする学問なんです

で、アリストテレスは、このイデア論に疑いの目を向けることになるんです。

では、どのようにして疑ったのかというと、イデア論の根本的なことについて疑ったんです。
『師匠のプラトンは、オリジナルはイデア界に存在するっていうけど、イデア界って、本当にあるの?』って

そしてアリストテレスは、人間の認識っていうのは、イデア界に有るオリジナルと見比べることで認識しているわけではなくて、世の中を観察した結果なんじゃないの?って主張するんです
どういうことかというと、羊と馬が一頭づついる現場に遭遇した場合は、四本足で歩く動物ということが、観察によって分かり、人間のように二本足の動物ではないことが分かる。
これによって、羊や馬は人間とは違う、四本足のカテゴリーの動物ということになる。
また別の日に、今度は、馬のと羊の群れに遭遇したとする。
すると、一匹づつしか目撃していない時はわからなかったけど、群れで装具した場合は、馬と羊という別々の特徴を備えた種族がいるということがわかる、
つまり、4本足の動物という部分は共通しているけれども、馬のグループは たてがみ を持っているけれども、羊のグループは体全体がモフモフしている。

よく見比べると、体型やプロポーションも全然違う。
つまり、これは同じ4本足のグループだけれども、別の特徴を備えた別の種族だということが分かる。
その様な観察を、人間は先祖代々行っていて、教育によって下の世代に教えていくことで、馬というものを認識できるようになっているって考える

プラトンの説だと、動物を見て、これらの観察によって馬という知識を得た後で、自分が生まれる前に存在していたとされるイデア界の記憶が呼び覚まされて、
頭のなかに馬というイデアが出来る。そして次から、馬を見るたびに、イデア界にアクセスして、馬のイデアと目の前の動物を見比べることで、馬と認識するという主張だったんですけども
これって、二度手間じゃない?って主張するんです。 観察によって馬とわかったんなら、イデア界はイランやん てことですよね。

こういう感じで、観察によって、違いや共通している部分を見つけ出して、分類していこうと考えたんですね。
この考え方は、後に経験論という名前で、一つの方法論として確立していきます。

その後、アリストテレスは、この観察して特徴を取り出すという手法を、あらゆる分野について行いだすんです。

例えば、星空を見て星の動きを観察するとか、動物を観て、特徴ごとにカテゴリー分けをするとか、空に浮かぶ雲の動きを観察して、天気との関連性を調べるなど
こんな感じで、政治学宇宙論、天体学、自然学(物理学)、気象学、の基礎のようなものが生まれていったんですね
これが、アリストテレスが万物の祖と呼ばれる所以(ゆえん)ですね。

ちなみにアリストテレスは、観察などの経験論的なことだけを行っていたわけではないんです
イデア論は否定しましたけど、イデアの様に、概念でしか説明できないことを全て否定したわけではなく、概念とか超感覚的なものというのは、別のカテゴリーに分けて、学問として確立させている

その他にも、論理学と行った、物事を論理的に説明するための方法なんかも研究していて、三段論法というのを開発するんです。
これは、aはbであり、bはcであるとき、aはcである。と言ったものですね。

色んな所で使われている例文を出すと、ソクラテスは人間である。人間は必ず死ぬ。だから、ソクラテスは必ず死ぬ。って感じですね。
これは今でも、論文を書くときの基本的な書き方になってたりします。

この三段論法は、後に、演繹法という形で、一つの方法論として確立するんです。
で、先程 紹介した、観察などによって物事を理解する経験論と、この演繹法というのは、後に、バトルを繰り広げることになるんですが、それはまた、別の機会に紹介する予定です。




で、こんな感じで、アリストテレスプラトンイデア論を否定したことによって、プラトンの主張は根本的に崩れ、哲人政治論という独裁思想も説得力を亡くしてしまうんです
存在しないかも知れない究極のイデアを振りかざして、独裁者に好き勝手されても困りますからね。




ではアリストテレスは、どの様な政治を理想としていたかということなんですが
結果からいうと、どんな政治でもいずれは腐敗するといった、冷めた目線で語っています




この人物、あまりに有名で知的巨人だったため、誰もアリストテレスを否定することが出来ず
間違ったことを言っているにもかかわらず、『あの、アリストテレス先生が間違ったことをいうはずがない!』として、盲信される事により、

株とオカルト (後編)

今回は前回の続きです。
まだ読まれていない方は、先ずそちらからお読みください。
kimniy8.hatenablog.com

前回は、株式投資の最初のページに書かれてそうな、移動平均線を利用したゴールデンクロスについて書いていきました。
簡単なまとめ的には、移動平均線は動きが遅いので、サインが出てから購入したとしても、儲かる保証はどこにもないという話。

この移動平均線ですが、これを応用した考え方なども存在します。
それは、ゴールデンクロスが2本の移動平均線を使うのに対し、1本の移動平均線を基準にするという考え方。
前回、そして先程も書きましたが、移動平均線というのはそもそも動きが遅く、結果としてサインが出るのが遅い為、指標としては意味をなさないわけですが、その欠点を補うのが、移動平均線を1本だけ使うという方法。

具体的には、25日移動平均線と現在の株価との関係で見る感じといえばよいでしょうか。
例えば日経平均株価は、基本的には25日移動平均線のプラスマイナス4%で推移し、まれに大きく動くときがあっても、プラスマイナス8%程度までしか行きません。
これを利用し、日経平均株価から4%売られれば売られすぎ、4%上回れば、そろそろといった考え方をする事が出来るのです。
しかし、これもアテになりません。

というのも、そもそも移動平均線というのは、株価の平均値なので、その日その日の株価が移動平均線に影響を与えます。
解りやすく極端な例でいうと、日経平均株価が2万円だとして、1日で8%の1600円下落して終了したとします。
そして株価は翌日以降変動せず、25日間、その位置をキープしたとしましょう。
するとどうでしょう。25日移動平均線は、株価がいる18400円のところまで下がってきているので、移動平均線と株価の関係だけをみれば、8%下落したところから25日移動平均線のところまで、株価は戻ったことになります。
しかし実際には株価は上昇しておらず、8%売られたところで購入していたとしても、儲けることは出来ません。
更に極端なことをいえば、最初に1600円下がり、その後、毎日20円づつ下がり続けたとしても、移動平均線は株価を追いかけてくる為、その差は縮まります。

当然といえば当然で、移動平均線は株価の平均値なので、その日その日の株価の位置そのものが移動平均に影響を与えます。
結果としてみれば、プラスマイナス4%で株価と移動平均線は絡み合いながら動くのですが、それを利用したとしても儲けが出るとは限らない。

次に、『サイコロジカルライン』。

サイコロジカルライン
こんな感じの横文字を聞くと、何となく科学的な根拠に基づいた、凄そうなシステムを思い浮かべるかもしれない。
しかし、このテクニカル指標の計算の仕方を知れば、そんな考えも吹き飛ぶことでしょう。
この指標の計算の仕方は簡単で、前日より上昇していたら『勝ち』で、下降していたら『負け』と言ったように、一日を勝ち負けの2パターンに分けるところからはじめます。
後は簡単。直近12回の勝負で、勝ちと負けがどのようになっているのかをグラフにするだけ。
元になる数字は、直近12日で『勝った日数』÷12を%表示しただけ。
つまり、12日間で6回上がってたら、6を12で割るので50になる。12回中9回勝ってたら、75ということになる。

サイコロジカルラインは、25を下回ると買い、75を上回ると売りといった感じで、一定の数値を超えると『買われすぎ』『売られすぎ』と判断して売買する手法。
こう聴くと聞こえは良いが、実際に行っている行動は、カジノに行ってルーレットの前に立ち『5回連続で赤が出たから、そこそろ黒が出てもいいんじゃないか?』と言っているのと同じだったりする。
確率論に詳しい人なら分かるが、何回連続で赤が出ようと、次に黒が出る確率は50%で揺るがない。
したり顔でこんなことをいうのは、遊びでやる分には盛り上がって良いが、資産運用のような生活設計に関わるような部分でやると、笑えない。
大数の法則が!なんて言う人もいるが、直近12回の勝負に限定している状態で、大数の法則なんて発動するのだろうか?

この『サイコロジカルライン』を更に進化させたのが、RSIという指標。
先程のサイコロジカルラインは、一定期間の騰落を数値化させただけなので、ツッコミどころも多い。
そこで改良が加えられたのがRSIで、簡単に説明すると、先程のサイコロジカルラインに、株価の変動幅も加えてみようじゃないかというもの。

例えば、600円ぐらいの株があって、11日連続で2円ずつ上昇し、622円まで上昇したとする。
そして次の日に、一気に30円下落した場合、株価は592円だが、サイコロジカルライン的には90超えとなり、いまだに買われすぎの状態となる。
この例だけを見ても、サイコロジカルラインの無意味っぷりが理解できるのだが、この部分に改良を加えたのがRSI。

計算式は、『過去14日間の値上がり幅の平均値』を、『過去14日間の値上がり幅の平均値』と『14日間の値下がり幅の平均値』の合計値で割ったもの。
先程の例で観てみると、日数が違うので14日で合わせ、600円の株価が直近13日、毎日2円づつ上昇して26円上がり、その後、30円下がって596円になったとします。
この場合、26を14で割た『1.85』を『1.85+2.14(下落幅30円を14で割った数字)』である0.46を%表示し、46%とするもの。
値幅が釣り合っている状態が50%なので、先程のサイコロジカルラインよりかは、優秀のような気がする。
見方としては、20~30%が回ゾーンで、70~80%がウリゾーンとなる。

しかしこの数値、使ってみれば分かるのだが、有効なのは一定レンジ幅で動いているときだけで、株価が上か下か、どちらか一方方向に動くトレンドを発生させると、途端に意味をなさなくなる。
何故かと言うと、上か下かに張り付きっぱなしになるからです。

でも、ココら辺りまでは、まぁいいです。トンデモとはいえ、数式などを使ってそれらしく見せてますしね。
しかし、株式市場には、これを上回る株価予測法が有ります。
これは、個人的に私が信じていないというだけで、信じている人を馬鹿にしているわけではないのですが、内容がけこう凄い。

メリマン特集 | ラジオNIKKEI

結構、有名なラジオ局も特集を組むぐらい人気があるのですが、簡単にいうと、サイクル論です。
株価というのは、一定のサイクルを描きながら循環していて、なんと凄いことに、その動きというのが、天体の動きとリンクしているんです!
地球は、太陽の周りを1年で一周のサイクルで回り、その他の天体も、それぞれ決まった動きをします。
当然、何十年に一度は同じ星の配列になるのですが、そのサイクルと株価の動きに相関関係が有るらしいんですね。。。

いやぁ、凄いですね。
株って、宇宙の星の動きも計算して動いていたんですね。
まぁ、世の中で起こる現象って、人間が想像もできないところでつながっていることも多数有るので、全否定はしませんよ。

ただね、全ての投資手法にいえることなんですが、そんなに儲かるのであれば、何故、公開するんでしょうかね。
株は、皆が同じ行動を取ると変動の仕方が変わります。つまり、絶対に勝てる手法があったとして、皆がそれを真似れば、その手法は通用しなくなります。
本当にその手法が当たるのであれば、誰にもいわずに、自分だけが使っていれば良い。

にも関わらず公開するということは、その手法を自ら実践するよりも、切り売りして講演会を開くほうが、確実に儲かるということなのではないでしょうか。
一見難しそうに見える投資の世界も、実はやっていることはギャンブラーと同じだったり、オカルトチックなものだったりします。

ちなみにですが、これらのファンダメンタルズ指標・テクニカル指標を駆使しているはずのファンドマネージャーですが、長期的な目線で観ると、日経平均連動型等のインデックスファンドにパフォーマンスで負けていたりします。
ほとんどのケースで負けているので、ファンドマネージャって職業が必要なのかどうかも疑問視されている程だったりします。

今の日本は、貯蓄から投資へと言った流れを加速させるため、様々な制度を作って、投資へと誘導させていこうとしています。
新規で投資を始める人も多いとは思いますが、投資の世界でよく分からない言葉を聞いた際は、『流石!!専門家!凄い!』と思うのでは無く、先ずは疑うところから始めてみてください。
手品と一緒で、タネを知ってしまえば、なんてことはないものだったりしますので。

株とオカルト (前編)

株ってありますよね。株式投資等の株。
ここ最近では、国が個人に株を買わせるために、必死で色んな制度を新たに作っていたりするので、興味をもたれているかたも増えているのではないでしょうか。
今回は、この株価について考えていきます。

そもそも株とは何なのかというと、会社そのものだったりします。
株というのは通常、複数発行されているため、株価と発行株式数をかけ合わせたものが、その会社の値段ということになります。
この会社の値段の事を時価総額と呼び、トヨタの場合は20兆円前後なので、20兆円あれば、誰でもトヨタを購入することが出来る径さんになります。
まぁ、実際にトヨタを買うとなると、買収を妨害するためや、自身が儲けを出すなど、様々な目的によって値段は跳ね上がる事が予想される為、単純にこの値段で変えることはないのでしょうが、制度としては現時点で20兆有れば購入できます。
トヨタの全てを欲しいわけではなく、実質的に一番偉くなりたいだけなら、トヨタの50%超の株を購入すればよいだけなので、必要資金は半減します。

よく、『会社は働いている私達のものだ!』なんて言ってる方もいらっしゃいますが、資本主義社会のこの世の中では、そんなものは与太話に過ぎず、会社は株主の所有物で、会社が産み出す利益、溜め込んだ資産の全ては株主のものです。
経営者というのは基本的には株主に経営を任されているだけのサラリーマンなので、会社の中で一番偉いわけではなかったりします。
何をするにも、株主にお伺いを立てなければならないのが、資本主義社会なんですね。

この、資本主義社会では結構重要な株式ですが、値段の付け方に注目してみると、結構、オカルト的な感じだったりします。

先程も書きましたが、株というのは会社そのもので、株価は会社の金銭的勝ちを表すのですが、何の物差しもないままに『トヨタいくら?』なんて聞かれても、返答に困ってしまいますよね。
そこで、株式市場には、株価を測るための物差しが沢山、用意されています。

一番よく利用されるのが、PER・PBRといった指標です。
PERは株価収益率の事で、PBRは一株辺りの純資産の事です。
資産運用に縁遠かった方などは、ややこしそうな印象を持たれるかもしれませんね。
ただ、これらの指標も、その意味を知ってしまえば、実は簡単だったりします。

株価収益率であるPERは、その会社が稼ぎ出す利益を、発行株式数で割ったもの。
一株当たり純資産であるPBRは、会社が持っている資産を全て売却した際の金額を、発行株式数で割ったものです。

先程も書きましたが、会社が稼ぎ出す利益も、溜め込んだ資産も、全ては株主のものです。
会社が稼ぎ出した利益は、株主に分配されますし、分配されなかったものは資産として溜め込まれます。
仮に、会社がある時点で解散した場合は、資産はすべて売却され、株主で分けることになります。

例を出して説明すると、1億円の利益を毎年上げている会社があったとして、その会社が発行している株が10000株あったとする。
この場合、1億円を発行株式数の1万で割ると1万円になる。
仮に、銀行金利が2%ぐらいだとした場合、元本保証で比較的低いリスクで稼げるリターンは2%という事になる。
価格変動リスクがある株の場合は、当然、これよりも高いリターンが無いと、投資する意味が無い為、3%ぐらいのリターンの上乗せを期待し、合計で5%のリターンが有れば価格変動リスクを受けても良いと考えた場合、この株の適正価格は20万円ということになる。
これが、PERを基準にした株価の計算方法。

PBR(一株当たり純資産)の場合は、もっと計算が楽で、持っている資産の一株あたりの価格と株価を単純に比べればよいだけです。
例えば、この株式会社が、製造機械や本社ビル等の資産を足し合わせ、20億円の資産を保有している場合、発行株式数1万株の場合は、20億を1万で割れば良い。
そうすると、一株当たり純資産が20万円ということが分かるので、20万円を下回っている場合は、その株を購入し、その時点で株主全員が解散を持ちかければ、株主は特をすることになる。
20万円を上回る価格の場合は、その時点で解散すると損が出るという具合です。

これらの2つの指標の場合は比較的分かりやすく、理解もしやすいと思います。

ただ、問題無のが、テクニカル分析という名のオカルト手法だったりします。
先程、紹介したPER・PBRといった指標は、ファンダメンタルズ分析と呼ばれるもので、企業の価値や収益など、実際の会社の活動の結果を見て分析するものなのですが、この手法の欠点としては、企業業績はそんなに頻繁に開示されないということ。
上場企業については四半期ごとに決算発表がありますが、逆に言えば3ヶ月ごとにしか判断材料が得られないという事にもなります。

しかし一方で、株価自体は毎日取引されている為、毎日どころか、それこそ秒単位で動いていたりします。
ではこの、秒単位で動く株価の動きを、どの様に予測するのか。
その指標になるのが、テクニカル分析なのですが… これが結構、胡散臭い。

例えば、テクニカル分析の基本となるのが移動平均線で、これは、一定期間内の株価の平均値を出したものです。
25日移動平均なら、終値が決定した最新の株価から25日前までの株価を全部足し、25で割ると平均値が出ます。
翌日になると、最新の株価が一日分進むので、それを繰り入れ、一番古い株価は切り離す。つまり、常時、最新から25日分の範囲が入るように、トコロテン式に範囲をずらして平均値を出していくということです。
これを連日続けると、過去25日の平均値が毎日更新され、それをつなげると一つの線になります。
これが25日移動平均線で、5日間の平均を取った5日移動平均など、期間を変えた平均値が沢山あります。

で、この移動平均線を使ったテクニカル分析で、ゴールデンクロスという考え方があるのですが、根拠が全くわからない。
ゴールデンクロスという考え方は、投資初心者が読むようなマネー雑誌に頻繁に取り上げられているので、知ってる方もいらっしゃるかと思いますが、簡単に説明すると、期間の長い移動平均と短い移動平均線を出し、長い移動平均線を短い移動平均線が下から上に抜いた時に書うという手法。
さっきの例でいうと、25日移動平均を5日移動平均が下から上に抜けば買いという事です。ちなみに逆はデットクロスで、売りのサインといわれている。
しかしこれが、全く根拠がない。
例えば、バブル前の様に、基本的に株価が上昇しかしない局面では有効な手法だったのかもしれませんが、上がったり下がったりしている状態では、役に立つどころか毎回損をする可能性も有る。
というのも、長い移動平均は、多くの日数を計算に組み入れているため、動きは鈍い。その一方で、期間の短い移動平均は、組入期間が短い為に動きやすい。
25日移動平均を、5日移動平均が下から上に抜くということは、株価は既に25日の平均値を5日程度は上回って推移している状態にある。
株価が一方方向のトレンド(向き)を示すこと無く、短い間隔で一定レンジを上下している場合、ゴールデンクロスの時が株価のピークで、デットクロスが底値ということが結構有る。

今回の説明では、5日と25日という短い移動平均で説明したが、マネー誌の多くは短期トレードではなく中長期を押しているため、使用される移動平均は13週移動平均と26週移動平均だったりする。
26週ということは半年なので、期間が伸びれば伸びるほど、株価の上限・下限の幅は広くなるため、大損する可能性が出てくる。

じゃぁ、株価が一定のトレンドの状態の時なら役に立つのかといえば、そうでも無い。
大抵の場合、株価は上昇するよりも下降するスピードの方が早い一方で、移動平均線の動きは遅いため、デットクロスが出ているのを待っていると、儲けが全部なくなっているなんてこともかなり多い。
というか、こんな簡単な方法で儲けが出るのであれば皆やっている。
ちなみにこの投資手法、外れて損失が出たとしても、『いまのは騙しだから、騙しかどうかを見極めないと』という魔法の言葉で、この手法自体の間違いは無かったことにされる素敵な理論だったりする。
騙しかどうかを見破れるなら、株価が上がるか下がるかも分かるため、そもそもこんな投資手法に頼らなくても良い。

…と、書いている間にヒートアップしてきたのですが、結構長くなってきたので、続きはまた次回に。
kimniy8.hatenablog.com

【本の紹介】 機械との競争 (後編)

今回の投稿は前回の続きとなっています。
まだ読まれていない方は、そちらを先にお読みください。

      

前回までで、経済指標は回復しているが、大半の庶民の所得は減少している事について書きました。
その主な理由は二極化で、テクノロジーの進歩によって新たな富が生まれても、その富の100%以上は一部の人間によって吸い上げられているからです。
この本では、3つのパターンで二極化について説明してあり、その内2つは前回に紹介しました。

最後のケースは、CEOと労働者との関係です。
結論からいえば、このケースでも二極化は起こり、CEOがボロ勝ちとなります。
1990年では、CEOと労働者の所得格差は70倍程度でしたが、現在では300倍にまで拡大しています。
300倍ということは、一般労働者の所得が200万だとした場合、その企業のCEOの所得は6億ということになります。

これらの事から分かることは、二極化は確実に起こっているという事。
これを読んで、『自業自得だろ!』と思われる方も多いかもしれませんが、そう笑っていられるものでもありません。
というのも、最初の『スキルの高い労働者対スキルの低い労働者』の対決ですが、これを更に具体的に観ていくと、面白いことがわかります。

世間一般で、低所得・底辺とされている方の求人需要は減っておらず、その一方で、プログラマー等の最新技術を持つ人の求人も減ってはいない。
減っているのは、その何方にも属さない、中間部分のスキル層。
簡単にいえば、ホワイトカラーと呼ばれる方達の仕事です。

考えれば分かることなのですが、例えば、介護施設のケースで考えてみましょう。
介護施設では、介護職員が行う仕事は多岐にわたります。風呂に入れたりオムツを変えたり食事の手伝いやなど、その他にも様々な事が一人の人間によって行われているわけですが、これらを全て機械化しようと思うと、相当な量の機械が必要となります。
当然、そのコストは莫大なものとなるので、施設の経営者は簡単に投資を行うことは出来ません。
様々な機械を大量に購入するリスクを考えると、人を雇って複数の仕事を行わせるほうが、低リスクです。
コンビニ店員なども同じです。レジ打ち、品出し、配送受付などなど、一つひとつの作業は単純作業ですが、行う仕事べき大量に有ります。
ここ最近のニュースでは、レジ打ちのみ自動化するような店舗も出てきましたが、レジ打ちが無人で出来るようになったからと言って、人がいらないのかといえば、そうではありません。

その一方で、デスクワークしている会社員はどうでしょう。
例えば経理ですが、昔はソロバンなどで計算して、いちいち紙に書いて帳面をつけていたので、大きな会社であればそれなりの人数の経理係が必要でした。
しかし現在では、自動計算してくれるコンピューターが存在し、それらは全て、ネットによってつながっている。
この環境を利用すれば、社員一人ひとりが支出や売上を入力することで、殆どの作業を自動化する事が可能です。
その為の設備投資も安価で、それぞれのコンピューターにソフトを導入するだけでよい。
プログラムも単純な計算結果を残すだけのものなので、複雑なものではなく、この分野では既に価格競争に突入し、個人商店レベルなら無料で使えるソフトなども出てきている。
また、自社の帳面を記帳するだけでなく、税金計算も行ってくる為、税理士も不要になってくる。
こうなって来ると、これらの分野の仕事がそもそも必要なくなる為、この分野の人達は仕事を失うことになる。

これは、その他のホワイトカラーも同じです。
例えば、情報を右から左に流しているだけの役職の語って、結構いますよね。
部下から上がってきた仕事を上に伝えるだけだったり、得意先から入ってきた仕事を下請けに投げるだけの人。
これらもソフトによって自動化、または、直接伝えることが出来るようになる為、存在理由が無くなる。

その一方で、この世にない様なサービスを思いついて形にする人や、様々なものを自動化するためのプログラマーといった分野の人は、これまた需要が高くなる。
この分野の人は世界レベルで求められる為、人材獲得合戦になっている事からもわかります。

前にも書きましたが、この本はアメリカの著者によって書かれた本なのですが、この傾向はは日本でも当てはまりますよね。
日本でも、コンビニ・飲食店・介護・保育士といった分野の人間は常に需要が高く、優秀なプログラマーなどは海外に吸い取られていて人が足りない状態ですが、中途半端なホワイトカラーの需要はそこまで多くない。
ただ日本の場合は、解雇が他の国に比べてしにくい為、これらの人達は保護され、結果的に効率化が出来ないままに更に人を雇うということを行っているため、企業の生産性が下がり、世界から置いていかれている感はありますけどね。
ちなみに、機械化しにくい為に人を雇っている分野は、消極的な理由での需要増加なので、賃金が上昇していくことはありません。
これは消費者側が、『このサービスにそこまでの金額を払いたくない』と潜在的に思っていて、結果として支払う金が少なくなり、それが労働者に跳ね返っているのかもしれませんが。
以前にも書きましたが、資本家は一定レベルの儲けがなければ事業を起こす意味が無い為、儲からなければ起業しませんし、儲けが減れば経費を抑えてでも自分の利益は確保しようと思います。
結果として、低スキル労働者の場合は、需要は高いが賃金は抑えられる傾向にあり、高スキル労働者は人材獲得合戦になる為、給料は上昇する。
その一方で大半の管理職は、必要とされなくなるという事。

では、これらの状況が良いのかといえば、当然、そんなことはありません。
この本では、自動車メーカーのフォードのCEO、ヘンリー・フォード二世と、全米自動車労働組合のウォルター・ルーサーの会話が取り上げられています。
(以下引用)
『ウォルター、ここにいるロボットたちから、どうやって組合費を徴収するつもりだい?』
それに対して間髪入れずにルーサーは、高切り替えします『ヘンリー、ここにいるロボットたちに、どうやって車を買わせるつもりだい?』

消費社会というのは、消費者がお金を使うことで社会が循環するわけですが、効率化に寄って労働者から仕事を奪い、資本家が儲けを独り占めしてしまうと、大半の人達は消費するためのカネがないために、消費活動が起こりません。

ここまで読むと、結構リアル寄りで書かれている本にも思えますが、この本、何故か、終盤になり、機械と人間が争うのではなく、協力しあった時が一番パフォーマンスが高いという話が出てから急に、ものすごいポジティブ思考になります。
テクノロジーをより進化させ、世界中のアイデアを自由にすることが出来る状態になると、仕事が圧倒的スピードで増加していくといった感じ。
世の中のアイデアは、基本的には既存のアイデアと他のアイデアとの組み合わせなので、一人の人間がたくさんの情報を知ることが出来ると、指数関数的にアイデアは増え、新たなジャンルが生まれる…
大量のジャンルが生まれるので、そのジャンルでの勝ち組であるスーパースターもジャンルごとに誕生し…云々といった感じ。

ただ、最後の最後でリアル寄りに戻り、世の中を良くするための20の提言を行っていて、その中には個人的に納得できる部分もあったので、結果から見ると、それなりに良い本だったように思えます。
本は2センチ近くとそれなりに厚いのですが、1ページ毎の厚さも厚いので、ページ数自体は170ページ程。
アメリカで書かれた経済系の本の割には、翻訳が読みやすい感じだったので、苦もなくサラッと読める感じも良かったです。
情強の人なら知っていたり考えれば分かる情報ばかりかもしれませんが、データなども掲載されているので、もっていて損はない本だとも思えます。

【本の紹介】 機械との競争

今回は、本、『機械との競争』の紹介です。

      

この本を簡単に説明すると、テクノロジーの進化によって、経済がどのように変化していくのかについて書かれている本です。
タイトルからも分かる通り、産業革命以降、機械と人間とは仕事を奪い合う状態にある状態なのですが、ITが進歩し、更に競争が激化したように思われる現状で、具体的にどのような変化が起こったのかを、詳しい数値を出しながら説明してくれています。
著者がアメリカ人の為、語られる経済の状態は基本的にアメリカの事ですが、日本人の我々が呼んでも共感できる内容となっています。

私達の社会を見渡せば、確かに、ITの進歩により、実際に多くの職が奪われています。
Amazonの登場で、実店舗の本屋はドンドンと減少していますし、本の電子化やゲームのダウンロード飯場によって、ブックオフ等の中古販売店も苦境に立たされている。
本屋に限らず、価格コムのように参入の簡単なサービスによって、実店舗を持つリスクなんてものも出てきています。
ネットをみれば、『後10年で消える職業』なんてニュースは定期的に出てきますし、今まで人を介して行ってきていた職業が、物凄いスピードで置き換わっています。

資本主義社会では、お金を稼がなければ生きていく為に必要な物資を手に入れることは出来ませんが、お金を手に入れる為には、働かなければなりません。
働く為には仕事が必要なのですが、その仕事が機械やテクノロジーによって奪われている状態。
この本では、この様な現状は、経済的な悪影響はないのかといった単純な疑問から始まります。

疑問を解決する為に、先ずは発表されている経済指標を観るところから始まります。
アメリカでは、2008年にリーマン・ショックという経済的ショックがありましたが、経済指標的には、アメリカ経済はショックを乗り切り、企業業績も過去最高を叩き出す企業が多くなってきました。

これは、日本でも同じですよね。
バブル期を超える決算を発表している企業は多数ありますし、株価も順調に上昇してきています。
2017年4月時点で、景気回復期間も戦後3位の52週間の継続と、日本は不況から立ち直っているとも考えられる経済指標がドンドン出てきています。
私には、全く実感はありませんが。

この『実感がない』と考えているのは私だけではなく、アメリカでもそうらしいです。
では実際には何が起こっているのかといえば、二極化です。

この本では、1983年から2009年までに創造された富の100%以上が、所得上位20%以上の方に流れ込んでいるといると示しています。
サラッと読み飛ばしてしまいそうですが、結構、ショッキングな内容です。なんせ、100%以上なんですから。
これは、26年間に創造された新たな富の全ての金が上位20%に流れただけではまだ足りず、下位80%の人の富が減り、減った分が更に上位20%に流れ込んだ事を意味します。
つまり、指数的には経済が成長しているにも関わらず、下位80%の富は減少し、上位20%の人間が吸い尽くしているということ。

大部分の人間にとっては景気回復は実感できず、むしろ自分達の生活は苦しくなっているのだが、全体としてみてみると、景気は回復しているから、何の問題もないという矛盾。
これは、所得のようなフラクタル構造のものに平均値を導入してしまったことによる間違いですね。
例えば、年収が200万円の人が100人集まると、平均値は当然200万円になります。
ここから一人抜けて、代わりに年収が2億の人が入ってきた場合、この100人の平均年収は倍近くに跳ね上がります。
残り99人の年収が100万円に減少しても、年収2億の人の所得が3億に増えれば、平均値は維持されることになります。
平均値というのは、たった一人の規格外によって、いとも簡単に意味をなくしてしまいます。

この本では、グラフなどを利用して現状を浮き彫りにしているのですが、それらのデータが指し示しているのは、二極化です。

では、二極化は具体的にどのように起こっているのかを、この本では3つのケースで考えています。

1.スキルの高い労働者対スキルの低い労働者
2.スーパースター対普通の人
3.CEOと労働者

最初の、高いスキルを持つものと持たない者との勝負ですが、こちらは高いスキルを持つものが勝ちます。
スキルを持たない人間の仕事の大半は単純労働の為、テクノロジーの進化によって、機械に仕事を奪われることになります。
その反面で高いスキルを持つ職人の仕事は、機械に置き換える事が難しい為、結果として人を使うほうが効率的になります。

次の、スーパースターと普通の人の場合は、スーパースターの圧勝となります。
一応、説明しておくと、スーパースターというのは芸能人だけではありません。それぞれの業界のトップで活躍している人や業種を含みます。
歌手などのケースで考えると、テクノロジーが無い頃の歌手は、ライブ中心で、観客の数は劇場の大きさが限度になっていました。
通信手段がないので、どれだけ有能な歌手であったとしても、噂が広がるのは隣町ぐらいが限度でしょうし、知名度もそこまで上昇しません。
しかしテクノロジーの進化によって、情報は瞬時に世界に広がることが可能になり、CDやダウンロード等の販売手法の増加により、観客の上限はほぼ無くなりました。
その一方で、他に選択肢がないから選ばれていたような普通の人は、スーパースターの商品がいつでもどこでも買えることが出来るようになる為、選ばれなくなります。

また、有名だから有名になるという現象も起こります。
ある分野でトップに君臨する人は、新規顧客が現れた時に、真っ先に選ばれがちです。
その分野に詳しくない新規顧客は、選択肢が多くなれば多くなるほど、どれが自分にあっているのかが分からず、とりあえず売れているものに手を出します。
これは製品でもコンテンツでも同じ。スマフォの機種の中でiPhoneが強いのは、性能が良いからというだけでなく一番有名だからで、有名で売れるから更に有名になるというサイクルが生まれます。

次に、CEOと労働者ですが…
長くなってきたので、続きはまた次にでも書こうと思います。

【おすすめPodcast紹介】 大好き・旅気分!!奈良発・ペルペルペルーサです!!

私の独断と偏見のPodcast紹介コーナー。
第122回。

過去に書いた投稿
タイトル紹介はこちら
エピソード紹介はこちら

今回は、【大好き・旅気分!!奈良発・ペルペルペルーサです!!】

です。


今回紹介するwebラジオは、【大好き・旅気分!!奈良発・ペルペルペルーサです!!】

番組の簡単な説明ですが、公式サイトの説明文がまとまっていて分かりやすいので引用すると
『元バックパッカー、45歳♂が、社会と家庭の責任を果たし、再びバックパッカーへのカムバックを目指す実録ドキュメント!!たまに脱線?もありますが、それは、旅好き・怪しい好きパーソナリティーのご愛嬌。。。時には、ゲストの方に来ていただき、海外事情、旅のこだわり、思い出話をお聞きします。どうぞよろしくお願いします。』
といった感じで、配信されている方はタイトルにもある通り、ペルペルペルーサさんです。
ここ最近の放送はゲスト回が多めで、バックパッカーへのカムバックといった雰囲気は余り感じ取れない感じですが、普段生活していると接することが出来ない情報を聴けて面白いですね。
ゲストとして呼ばれる方は複数人いらっしゃるのですが、全ての人を1度に呼ぶわけではなく、呼ぶ場合は1人づつ、1体1の放送になっています。

知った経緯としては、色んな所でペルペルペルーサさんの名前を拝見していたからです。
私がPodcastを本格的に聴きはじめた頃は、旅々プロジェクトやトリカゴ放送といった、旅をテーマにしているPodcastが多く、そのオフ会などにも参加していた為、facebookTwitterなどで同じ人と繋がっている場合が多く、頻繁に名前だけは拝見させて抱いてました。
そんな状態だったのですが、当時はPodcastを聴きたてで、トリカゴ放送や旅々プロジェクトの過去放送を掘り下げていた最中で、時間が無かったという事もあって聴けていませんでした。
その作業も一旦、落ち着き、時間が出来てきたということで、この番組を聞き始めました。

更新頻度は週に1~2回。
レギュラー回が1回と、競馬で大きなイベントが有る際は、その前日に予想回が更新されます。(2017年現在)

実際に聞いてみた感想としては、日本を出たことがない私にとっては、興味深く聞く事が出来る番組ですね。
ゲストとして呼ばれる方は複数人いらっしゃいます、ここ最近だと、タイ在住のシュールさんや、BTLGの方の結婚事情・南米を旅行中の方々等など。
何を持って普通というかは置いておいて、普通に日本で生活していると経験できないし、経験した人とも簡単に知り合えないような体験をしていらっしゃる方の話が聞けるので、未知の世界を覗けるような感覚で、楽しんで聴けます。

この様な雰囲気を保ち続けていられるのも、配信者のペルペルペルーサさんの好奇心があってこそなんでしょうね。
私の個人的な偏見も有ると思いますが、元・現に限らずバックパッカーは、普通の人よりも好奇心が強いと思います。
強くなければ、他人が行かないような場所や、避けるような安宿に泊まろうと思いませんもんね。
人とつながる事にも貪欲だと思うので、様々な価値観を持った方と知り合うことが出来たんでしょう。

そんな多種多様な方がゲストとして登場する番組なのですが、そんな中でも、個人的に一番おもしろいと思う話をされるのが、通称『モハちゃん』の話。

『モハちゃん』なんて可愛い感じのあだ名で気軽に書いてますが、おそらく私よりも年上の男性で、話し方や話題などからも、社会的な地位もしっかりとした方だと想像できる方です。
この方の話なのですが、インドネシアに在住ということなんですが、観光客どころか日本人では絶対に行かないような場所に出かけた上で体験談などをしてくれます。
時には下の話なんて事もありますが、そういうのに特化しているわけでもなく、日本を離れて住んでいるからこそ感じる日本経済の話。株・為替を交えたグローバルな話なんかもされ、引き出しの多さが半端じゃありません。

グローバル経済の話は、日本にいても検索をすれば手に入るだろうと思われる方も多いとは思いますが、日本の情報というのは日本というフィルターを通って入ってきて、報道機関の都合の良い用に加工されて入ってくる為、日本に住んでいると情報は偏るんですよね。
『じゃぁ、インドネシアは偏ってないのか!』という反論をされる方も多いと思いますが、インドネシアインドネシアで、当然、偏っているでしょう。
世界のニュースもインドネシアの価値観に変換された形で理解されますし、インドネシアに住む人達に聞こえの良いように加工されるでしょう。
報道が権力側に擦り寄っていると、それを踏まえたフィルターを通した伝え方になることは、容易に想像できます。

ただ、この様な偏った情報であっても、多方面から観ることで、ある程度のフィルターを取っ払うことは可能です。
一方方向から見ると歪な情報でも、4方向からみれば全体像がある程度、浮き上がってくる。
見る視点を更に増やすことで、より正確に理解できるようになる。

視点は増やせば増やす程、物事を理解する助けになるわけですが、日本に住んでいる状態だと、どうしても日本のフィルターがかかった情報が多くなってしまう。
今はネットなどがあり、日本に居ながらにして海外ニュースを拾うことは出来ますが、それもでも、現地の情報をそのまま手に入れようと思うと、英語を理解する能力が必要になってきます。
この様な状態なので、海外に住んでいて、フィルター余りかかっていないフラットな見方をする方の意見は、非常に価値が有るんですね。
そんな視点を定期的に与えてくれるというだけで、聴く価値があります。

ゲストもコロコロ変わり、話される内容も結構違いが有るので、今回メインで紹介した方の話の内容が気に入らないという方も、他の方の話だったら興味深く聞く事が出来るかもしれません。
この辺りが、ゲストが変わる番組の強みですよね。

ゲストによって番組の色が結構変わるので、飽きにくいというのも良い点だと思います。
興味を持たれた方は、試しに聞いてみてはいかがでしょうか。

木村、Podcastはじめるってよ

タイトルの通りなのですが、Podcastを始めることになりました。

私は何年間か、ブログを通して自身の考えや思ったこと、勉強したことや体験したことの感想などを発信し続けてきました。
この活動はこのまま続けるつもりなのですが、この『ブログを書く』という作業をしている時に、何回かに一度は、『喋ったらもっと楽なんだけどな。』と思うことがあるんです。

というのも、文字での更新というのは、思っている事をそのまま伝えづらい場合が結構あります。
文字では、熱が伝わらないというんでしょうかね。単なる情報になりがちで、感情などが表現しにくいんです
その為、『文字で読んだら、誤解するんだろうな。』といった事も結構あり、それを避ける為に、別の表現に置き換えた結果、ニュアンスが変わったりと、微妙に不便なんですよね。
『もっと文章の書き方を勉強しろ。』といわれれば、その通りなのですけどね。

後、制限も結構有るんですよね。
例えば、理解を進めようと詳しく書いたり例を出したりしていくと、結構な長文になっってしまう。
私が読者の立場なら、長文の時点で読む気をなくすので、私なら読めるレベルの長さにしようとすると、ある一定の文字数でまとめなければならない。

また、前後の文脈なんかも考えながら書いていくと、『思ったように書けない』と思うことが、それなりに有るんですね。

でも、これが音声の場合は変わってきます。
文字のように、頻繁に読み返すような事が出来ない為、その時々で話したい事が話しやすい。
例えば、テーマに関係のない余談でも、『余談ですが』と一言挟むだけで、本編に余り関係がない事でも発信しやすい。メインテーマに戻りたければ、『脱線してしまいましたね』と言って、戻れば良い。

ニュアンスなども、熱が伝わりにくい文字よりも、音声の方が、より、伝えやすい。
私が発信するコンテンツは一人喋りなので、感情豊富に話すわけではないのですが、それでも、文字だけよりかは情報量が多くなると思います。

その他の理由としては、利用者層の違いでしょうか。
文字のみのブログと、何かをしながらでも聴ける音声コンテンツとでは、利用の仕方そのものが変わる為、利用者層も変わってくると思います。
どうせアウトプットをするのであれば、幅広い層に伝えたいという事で、今までとは違った場所にも出ていこうと思ったわけです。

そんなわけで、文字のみのブログ『だぶるばいせっぷす』の補完的な感じで、音声ブログを発信していきます。
コンテンツ名は、ブログ名と同じ『だぶるばいせっぷす』

基本的には、過去に書いたブログからネタを拾う形での配信になると思います。
興味の有る方は、是非、聴いてみてくださいね。